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蜻蛉乙女(あきつおとめ)
深志同窓会

第4回 乙女の輪 大切なことは出発することだった

46回卒 石原 慶子

北海道の中央部・十勝岳の初冠雪

北海道の中央部・十勝岳の初冠雪

目の前に広がる十勝岳連峰。トマトを育てるビニールハウスを出て初雪をかぶった美しい山々を見ると、幸せだなと思います。私は今、この風景の下、夫と農業をして子供達3人と北海道・美瑛町に暮らしています。

 幼いころから転勤族だった父と家族で各地を回り、小学6年生の時から大学入学前まで松本の父の実家で暮らしました。ぶどう、りんご、稲を育てる兼業農家だった実家での暮らしは、きれいな空気、草の匂い、ぶどう園の木陰、りんごの花、稲わらの匂い、しめ縄をなう手の冷たさ、薪のお風呂のたける匂い・・・、全てが私という人間の基礎を支えています。中学生の頃から、こんな土に近い暮らしが好きだと思っていました。

白い世界では自分の体温だけが確かです

白い世界では自分の体温だけが確かです

北海道の大自然に憧れ、大学時代を北海道で過ごしました。ワンダーフォーゲル部で山々に登りました。雪山では登山道はなく、地図と地形とコンパスだけが頼りです。自分の力で道を見つけ進んでいく楽しさ、その責任を知りました。また厳しい自然の中では食べたチョコレートがエネルギーとなり、指先まで血がめぐる事で自分が生きている、という事をはっきりと感じられ、そういった感覚が生物としての喜びだと思いました。

社会人となり、大学で一緒に山に登っていた夫と結婚し転勤族になりました。広島・横浜と暮らし、横浜で長女が生まれました。都会で息苦しさを感じながらも楽しみを見つけて暮らしていました。ただ、選んで消費するだけの生活に不満もありました。10年後というとよちよち歩くようになった長女が小学生です。10年後のここでの家族の姿がすんなり想像できませんでした。夫ももっと自然に近い場所で自分の力を試したいという気持ちがありました。一度だけの人生なら、自分達が良いと思う事をしよう。やるなら自分達が大好きな場所で。北海道・美瑛町で農家になることを決意しました。

子供と一緒に農作業

子供と一緒に農作業

それから7年。農家さんでの2年の研修を経て、自分達で農業を始めて5年になります。その間に子供も3人に増えました。主にビニールハウスでのトマト栽培、他にアスパラガス・スイートコーン・かぼちゃなどを作っています。
 決めた責任は自分達にあります。研修中には求める土地が見つからない、就農後もトマトの管理がうまくいかず全然実がつかない、栽培準備中のビニールハウスが暴風で骨組みごと飛ばされる・・など大変な事があっても前を向く事が出来ました。

完熟トマト「まっかなあかりトマト」を販売

完熟トマト「まっかなあかりトマト」を販売

夏の最盛期には日が出ている間は本当に忙しく、我慢させることが多いものの、子供達は私達の働く姿をそばに感じながら、土の近くで遊んでいます。農作業・草取り・雪ハネ(雪かき)・薪割りなど、汗して生活するリズムもだいぶ整ってきました。自分の精一杯で生きている感じに充実感があります。  今では土作りや適切な管理で作物が健全に育ち、農薬を減らす方向に進んでいます。「なんとか生活する」から「求める農業とは何か」に向かいつつあります。

「大切なことは出発することだった」大好きな写真家・星野道夫さんの言葉です。
私達のあの時の「出発」は間違いではなかった。大変な事もひっくるめて素直にそう思います。これからも自分が決めた責任、支えてくれる周囲への感謝を忘れず、必要な時には迷わず「出発」していける自分でありたいと思います。

第3回 乙女の輪 Something New

51回卒 和田 愛

中学・高校はバスケ部。大学は理系。芸術とはかけ離れたところで生きてきた私でしたが、大学時代から国内外を旅行する機会が増え、いつも持ち歩いていたカメラで初めて見る景色やそこで暮らす人々をなにげなく撮っているうちに" 写真 "への興味が大きくなっていきました。

自主制作の写真集・絵本、展示会用のポートフォリオなど

自主制作の写真集・絵本、展示会用の
ポートフォリオなど

あるとき、友人の勧めでカメラ雑誌に投稿したところ、それが掲載されたことで自分の撮った写真を人に見てもらう喜びを知りました。それから写真展をやってみたいという夢を持つようになり、また私と同じように写真に興味を持っている人や、写真だけでなく書道や絵、映像、デザインといったさまざまな分野で活躍する人たちとの出会いにも恵まれました。そうした方々の考え方、価値観、経験に触れ、一緒にコラボ作品を制作したり自主出版の写真集制作に力を入れたり、東京や松本のカフェやライブイベントなどで展示会を重ねていきました。

憧れのNew York(ブルックリンから見たマンハッタン)

憧れのNew York
(ブルックリンから見たマンハッタン)

2009年に友人の個展を見にNYへ行ったとき、グループ展示の誘いを受け、またギャラリー関係者の方とも出会い、翌年NYで "書道と帽子と写真" という異色のグループ展の開催にいたりました。
 私にとって初めての海外での展示。準備の1年間はプレッシャーとの闘いでした。今更ながら写真に関しては独学で、自分のカメラ技術や知識の乏しさから海外での展示などとんでもない場違いではないかと自分の無知を恥じたりもしました。しかし、それでも幼い頃からNYという地に特別な憧れをもっていた私はこのつかんだチャンスを絶対離さないという強い決意をもって突っ走りました。

NY展

NY展"SAKURA flutter"のレセプションの様子

2010年、真夏のNY。現地の日本人新聞や美術系雑誌への広告などギャラリーのプロモーションのおかげでレセプションにはたくさんの方が来てくれました。展示期間中にはアメリカに住む深志の先輩方も何度も足を運んで下さり、友人たちは日本から会場にお花を贈ってくれました。英語は1年間勉強した程度では全くネイティブの方のスピードにはついていけませんでしたが、身振り手振りふまえて作品の説明や情熱を必死に伝えました。そして、自分の作品が売れたときは信じられない気持ちでいっぱいでした。

支援先の福島の保育園(ともだちAHOさんぽのわプロジェクト)

支援先の福島の保育園支援先の福島の保育園(ともだちAHOさんぽのわプロジェクト)(ともだちAHOさんぽのわプロジェクト)

それから、2011年3月に起きてしまった東日本大震災。
TVで被災地の様子を見ながら、何か自分にできることはないか考え、仲間と共に復興支援プロジェクトを立ち上げました。
私たちは被災地の保育園や託児所など主に子供たちへの支援を目的に、支援者の方々から寄せられた寄付金で購入した生活必需品の他、支援者の方々の心のこもった手作りの物資を届け、また子供たちにいろんなことに興味をもってもらえたらとさまざまなアートも取り入れ、海外からの支援もお届けしています。一方的にお金やモノを送るのではなくて心通う支援とはどういうことかを考え、支援先の現状を伺いながら今必要とされていることに少しでも役立てたらと思って進めています。
震災から1年たって石巻を訪れたとき、海岸が未だに瓦礫の山だらけだった光景は忘れられません。支援物資を届けたときにカメラにピースサインをしてくれた男の子の笑顔も胸に焼き付いています。

NYの地下鉄であるフレーズを見て、心が高ぶったことを覚えています。
「Something New」
それは「何か新しいものをつかめ!」という内容の広告でした。
写真はいつも"新しい何か"とのきっかけを私に与えてくれるように思います。
人との出会い、展示会、復興支援活動、そして、このリレーコラム、、、
きっとこれからも。

第2回 乙女の輪 海外に日本の文化を発信する

34回卒 山科美智子

海外で生活をすること、それは私の夢でした。故郷の松本を囲んでそそり立つ山々を越えて、もっと遠くの地を見てみたい、できれば海も越えて、異国の地で暮らしてみたい、そんな夢をいつからか持つようになっていました。

そんな私の思いがいつしか叶い、私は家族とともに、フランスのナンシー、そしてパリで4年を過ごし、その後アメリカのカリフォルニア州、そしてニュージャージー州でそれぞれ5年近い駐在生活を送ることになったのです。

ナンシーの夕暮れ(美しい街でした)

ナンシーの夕暮れ(美しい街でした)

最初の赴任地、ナンシーは、ロレーヌ地方の小さな街でした。アジア人も少なく、お米なども買えないような街で、まだ小さかった子供を連れて、市場に買い物に行っては、つるされて売られている鶏に驚いたり、見たこともない食材にそっと触ってみたり、チーズの種類の多さに唖然としたり。。。毎日が新鮮な驚きの連続でした。フランス語もお料理も現地の習慣も、何もかもを吸収したくて、夢中で過ごした日々でした。

そしてパリでもカリフォルニアでも、私は、子育てをしながら、現地の言語や文化を学ぶことに一生懸命になっていたのです。

2009年から再びニュージャージーのプリンストンに住むことになったとき、私にはひとつの強い思いがありました。今までは現地で学ぶことばかりに夢中になっていたけれど、今度は日本の文化を自分から現地の人々に伝えていきたい、という思いでした。さまざまな地に暮らしてみて、その地の素晴らしさに感嘆しながらも、今までは見えていなかった母国のよさや日本文化の持つ奥深さをひしひしと感じるようになっていたのです。

プリンストン大学

プリンストン大学

そんな中、プリンストン大学で、日本のビジネスマナーに関するワークショップを開いてもらえないだろうか、というお話しをいただきました。日本で仕事をしたい学生や、日本の学会に出席する予定の教授や研究員の方に、日本でどう振る舞うべきなのか、ビジネスマナーを教えてほしいという依頼だったのです。

ワークショップにて名刺交換の練習

ワークショップにて名刺交換の練習

ビジネスマナーと一口に言っても、何をどう教えればいいのか、何が大切なことなのか、考えるなかで、私は、日本のマナーは日本人の心のあり方を映しているものなのだと気づきました。表面的にマナーを説明するのではなく、そのマナーを生み出した日本の心や文化を理解してほしいと思うようになりました。名刺の渡し方ひとつにしても、アメリカと日本では大きく違います。名刺をその人自身として丁寧に扱う日本のマナーはアメリカ人にとっては驚きなのでした。

ワークショップの様子

ワークショップの様子

実際にワークショップを開催してみると、出席する学生や教授の方々が思ったより多く、急遽大きな教室に変更して行いました。質問も活発で、思いもよらないことに疑問を持っているものなのだと驚くことも多々あり、私自身もまた日本という国を見つめなおすよい機会になりました。その後毎年このワークショップを開催させていただいて、出席者の中には、卒業後、日本で仕事をしている学生さんも多くいます。

フランスでもアメリカでも、日本という国にとても興味を持ち、あこがれている人が多いと知る一方、日本があまり正しく知られず、報道されていない側面があるとも感じています。海外の方との密なコミュニケーションの中で、日本についてもっともっと発信していければ、と思っています。

第1回 乙女の輪 可能性への気づきと出会いをもたらしてくれたブラインドセーリング

32回卒 前田康子

目の見えない人達がヨットレースをする。

ちょっと想像してみてください。風や波や潮の影響を受けながら走らせるヨットを目の見えない人が舵を持って、セールを調節して走らせる。
大学時代からヨットレースに長く親しんでいる私自身、そんなことできるのかと半信半疑でしたし、出来たとしてもお遊び程度なのではと思っていました。昨年までは。

ブラインドセーリング1

目の見えない方達が舵を握っているとはわからないほど揃ったスタートをしています。

でも昨年、お世話になっているセーラーの先輩方からお誘いいただきブラインドセーリングに参加して、自分自身の浅はかな思い込みに恥じ入りました。目の見えない方達の可能性、ひいては一人一人の人間の可能性は私たちが普段想像するよりもっともっと限りないものだと、今更になって思い知らされたのです。

ブラインドセーリング2

4名で分担して船を走らせます。男女一緒に平等に戦いますが、このブラインドセーリングは女性の活躍する率が多いレースです。

ブラインドセーリングというのは、ブラインド2名と目の見える2名、計4名で一艇のヨットに乗り、複数のヨットが一同にスタートを切り速さを競うレースです。目の見えない方一名が舵を、もう一名が大きなセール(メインセール)を担当し、目の見える一名が小さいセールと舵とメインセール以外の調整、もう一名はレース中手出しできず、口頭で船の状態を知らせ、指示を出します。ブラインドの方達が操船するのですが、ヨットは風の向きにあわせて船を動かすこともあり、ブラインドの方達が視覚以外の鋭い感覚を駆使して船を安定して走らせることができるので、思いのほかレースのレベルは高いのです。

昨年(2012年)、私たちのチームは幸いにも参加した全日本で優勝し、今年(2013年)5月に日本で行われた世界選手権に出場して、今回勝ちに来た英国をはじめ、海外選手達のレベルの高さに驚くとともに、緊迫したレースを楽しみました。

ブラインドセーリング3

マリーナでは、普段とはちがう、ブラインドの方々をエスコートするサイティットらが繋がって歩く微笑ましい光景がみられました

今回のレースを通じてそれまで知らなかった盲目の方達の困難と強さに触れ、特に一緒に乗った由紀さんの障害を受け入れそして進む強さに惹かれ、人の中にある大きな可能性に自分がいかに向き合っていなかったと気づかされ、そして力づけられました。
そして今回、深志の同期をはじめ多くの方々がレースを観に来てくれたり、深志の先輩や同期のおかげで新聞や週刊誌にもとりあげていただいたりと、新しい関わりが生まれたのも嬉しいおどろきでした。応援いただきましたみなさま、ほんとうにありがとうございました。

ブラインドセーリング4

深志の先輩のおかげで報知新聞に大きく取り上げていただきました。右の端には実は深志の夜行軍の話がコラムに掲載されています。

今回このサイトが出来たことから、また沢山の方々との有機的な繋がりが出来上がってくることを楽しみにしています。