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蜻蛉乙女(あきつおとめ)
深志同窓会

第14回 蒼穹にトンボ飛ぶ

 25回 竹本祐子

青い空に、数多くのトンボが飛ぶ季節になった。
 新型コロナウイルスの感染拡大のおかげで、家に閉じこもる日々がいつになったら終わるのだろう。
 二度ワクチン接種したのに感染するブレイクスルーもある、などと、不安の中で過ごすうちに季節は移ろい、酷暑の記憶は遠ざかっていく。
 例年8月の最後の土曜日には同窓会の役員会が、9月の最終土曜日には総会が開かれてきた。
コロナ禍であろうとも、感染対策をして役員会も総会も開かれた。マスクに半分隠れた顔でも、目は口ほどに物を言う。アルコール消毒と、ソーシャルディスタンスの椅子の位置など、さまざまな会議や集まりの場面では慣れてきた印象がある。お楽しみの懇親会は取りやめが通例になった。
延期や中止の多い事業報告。それでも卒業後の周年記念事業で母校援助だけはコロナにも負けていない。母校を思う気持ちは、卒業して何年か経つうちに、そのありがたみや懐かしい思い出が増えてくる。
卒業回数によっては、名前のある会もある。年輩であるほど母校への思い入れが強いのか、5回卒は五蜻会(ごせいかい)、7回卒の大先輩に聞くと、七日会と称すると回答を得た。ついでに、毎月7日の夕刻7時から、会合を持っているという。うらやましい限りだが、コロナ禍にあってはさすがに中止の憂き目にあっているだろう。
11回卒は添俱会(てんぐかい)。8x8は64ということで、松中64回卒は葉っぱ会(はっぱかい)とか。大先輩から聞いたものである。ほかにもいろいろあるのだろうが、どなたかご存じの方にご教授いただくしかない。
私の25回卒は、にこにこ会と言う名がついている。毎月例会のごとく食事会があるが、コロナ禍でしばらくは休宴中。
部活動によっても、様々な名前がついている。音楽部のOBの集まりは志音会(しおんかい)、陸上部は天馬会(てんまかい)、バレーボール部は五色会(ごしきかい)。最近は新たな部活動もあり、新たな名前のOB会も誕生していることだろう。
また、学区制などなかったおおらかな昔の時代、県外からも深志に入学してきたということで、学生寮があった。寮の名前から飛雲会(ひうんかい)。その寮のあった場所は、旧制中学から新制の深志高校になる際に、同窓会に寄贈という形で送られたため、現在も土地の名義は同窓会になっているが、地上は天白公民館が使用している。
現在同窓会館の立地する場所にはまた別の尚志社という寮があったが、昭和36年に焼失している。出火原因はたばこの火の不始末だったとか。当時寮監をしていた先生は、焼失後はまさに意気消沈、青菜に塩の状態で、多くの人の憐れをかったという。尚志社のあとは、その後テニスコートになり、現在同窓会館が建てられている。
こんな昔の貴重な話が聞けるのも、役員会や総会の懇親会でのこと。その機会を奪われた近年は、語られない歴史のページが増えていくようで危惧している。

かつて男子校であった深志高等学校も、今や女子生徒の割合がおよそ50%になりつつある。昨今の男女共同参画だの、性差別撤廃の気風によって、男だから、女だからと、そこに固執することはなくなりつつある。女だてらに、と後ろ指差されることもなくなった。
 とはいえ、男らしさ、女らしさを誇示することはなくとも、男らしい人、女らしい人は、それなりに人間としての魅力を備えている。確かに、視点の違い、感性の捉え方、それぞれ違っていることを、お互いに認め合えば特に問題視することはないように思う。
 5月になると、校舎の屋上には大きな鯉のぼりが悠然と風をはらんで大空を泳いでいた。その光景は思い出の中に燦然と輝いている。女子生徒の数が増えたからと言って、3月にお雛様を飾る必要はない。深志高校の校風として、男女がともに鯉のぼりを眺めてエネルギーをもらえばよい、と私は思う。

初夏に買い求めて食べたビワの実の種を、無造作に土に埋めておいたら、なんとぞくぞく芽がでてきた。特別な待遇をしたわけでもなく、水やりだけはほかの植物と一緒にしてやる程度。それでもしっかりと芽を出して育っていくのが植物の生命力たるもの。
 あの高校教育の三年間に、おのれのその後の進路を方向づけ、自分を育てる情操、一個の人間として生きる糧のようなもの、そのタネを、植え付けられたのではないか。高校卒業後、それぞれが様々なものに出会って、自分の職業へと生かすなり、幅広い知識として教養を身につける。が、多くのものの中から取捨選択する際に指標となるのが、高校時代に好きだったこと、やりたかったこと、あるいは自分の得意とすることなのではなかったか。
 目の前を通り過ぎていく神羅万象、有象無象の情報過多な時代の波を、乗り越えていく力の源を得たのが、あの三年間であったと今更ながらに確信している。
 私が英語に興味を持ったのも、山本悟朗先生の厳しい英特の授業のおかげだろうか。ほんの1年だけでも米国で学んだのも、世界史の中村盤根先生の破天荒な授業のおかげか。
人生はどのようなことが起こるかわからないが、最後に決断するのは自分でしかない。その昔、婦女子は男の言うなりの生活を送らざるを得ない状況であったが、いまや自分の考えを持ち、好きな人生を自ら選び取ることができる。
 ウィルスは男も女も、若者だろうと年寄だろうと、容赦なく感染し、重症化した患者の命を奪う。ウィルスが自然の猛威だとすると、人間社会においては、扶養家族有る無しの控除の条件が同じであれば、税金は男でも女でも一律に課税される。
 だから、学校生活でいうなら、生徒会長も応援団長も、もはや男女どちらの肩にも担われる時代となった。もはや一国の総理大臣も、大統領も、男であれ女であれ、望まれた人物が就任すればよい時代となった。
コロナ禍のお蔭で、冠婚葬祭、生活習慣、さまざまな面が大きく変化した。もはや西洋人も握手をしない。見知らぬ人と透明のカーテンやアクリル板をはさんで会話することも、悲しいかな通常の生活スタイルとなった。買い物にいくと、釣り銭も機械から自動で出てくるか、ビニール手袋をしたレジ係がトレーを差し出す。こういった非接触型の生活が普通となり、人と人の交流が薄れていく。
こんな時代の節目にあって、どん底であがいている人も、するりと危機を脱する人も、あるいは我関せずと生き抜く人にも、深志高校という同じ時空間を共有した同窓生として、濁世の波を乗り越えていってほしい。友と汗水流して目標を目指したあの3年間、あるいは互いの肩を抱き励ましあった、濃厚接触型の青春があったればこそ、今を耐えられる気がする。
蜻蛉男児、蜻蛉乙女に栄あれ。

 


蜻蛉乙女とともに

蜻蛉乙女とともに

 


 

校舎屋上に、鯉のぼり舞う

校舎屋上に、鯉のぼり舞う

 


 

第13回 パソコンからもらった楽しさや感動を届けたい

 32回 小林美代子

皆さま、こんにちは。32回卒業の小林美代子と申します。
 大学では経営学を専攻、帰郷して就職したのはコンピュータでプログラムを作る会社でした。当時のシステム開発は、汎用機(大型機)からオフィスコンピュータと呼ばれる中型機での開発が主流で、その後ワープロ専用機やパーソナルコンピュータ(パソコン)が登場します。

NECのパソコンPC-9801を購入するやパソコンの楽しさに魅せられて、Apple社のMacと出会いOSやコンテンツに感動するうちに、「パソコンに関わる仕事がしたい」と思うようになり、パソコン講師としての人生が始まりました。専修学校に転職して学生にパソコンを教えるほかにも、地域や団体のパソコン講習を引き受け、多くの受講生の皆さんにパソコンの使い方や楽しさを伝えてきました。

最近では、スマートフォンやタブレットも登場し、障がい者や高齢者の支援ツールとしても活用が広がってきました。

たとえば、発声が不自由な方には入力した文字を音読してくれるアプリが、目が不自由な方には触れたところを音読してくれる「ボイスオーバー」等の機能やカメラを使って色や明るさ、お金などを識別してくれるアプリがあります。また、移動が難しい方でも、Amazonなど通販サイトを使って好きなものを購入したり、YouTubeやストリートビューで旅気分を味わったりできます。小さい文字が読みづらいというご高齢の方には、「カメラ・写真」と「ピンチイン・ピンチアウト」の操作を覚えていただくだけで活用が広がります。「LINE」で送られてくるお孫さんの写真に返信ができるようになったと喜ぶ方もいれば、「LINE」のグループの機能をお伝えすると高齢者の仲間同士でしてグループを作り連絡用に活用する方もいらっしゃいます。

しかし、例えば「経路案内」と「ボイスオーバー」を併用して道を歩いていくと、入口側でない建物横に案内され困惑したり、更新や機種変更で使い方がわからなくなったりと問題も多々あることに気づかされます。

次から次へと、新しい機器やアプリ・ソフトが登場します。でも、使うのは人間です。その人の便利さや感動につながるような使い方ができるように、私はこれからも多くの人たちに関わり続けたいと考えています。

 


タブレット勉強会で操作方法を説明

タブレット勉強会で操作方法を説明

金沢工業大学 松井くにお教授考案「点字ブロックによる音声誘導」をえんぱーくで実験

金沢工業大学 松井くにお教授考案「点字ブロックによる音声誘導」をえんぱーくで実験

 


 

2019年度タブレット勉強会のご案内

2019年度タブレット勉強会のご案内

2018年 研究会で開催した講演会

2018年 研究会で開催した講演会

 


 

第12回 乙女の輪 子どもと本をつなぐのがわたしの仕事です

 23回 越高令子

ふるさとの松本市で子どもの本の専門店「ちいさいおうち」を開いて、今年の6月で36年になります。(松本深志高校のすぐ近くです!)本屋と言わずに、名刺やパンフレットには、いささか誇大広告ぎみの「子どもの文化情報センター」と開店当初から書いたのには、訳があります。子ども・本というキーワードで、店にはさまざまな情報をもったお客さまが、集まってきます。その中の課題をくみ取り、その分野に精通している方に繋げていくことがわたしにもできるのではと夢見て、情報センターと名づけたのです。

果たして思った通り、本当にさまざまな分野のお客さまがおいでになりました。すてきな出会いがいくつもあり、次第に自分で出来ることがはっきりしてきました。その中の一つを今日はお話しようと思います。

1993年に、長野県立こども病院が出来ました。県下初の小児医療の総合病院です。ある日、一本の電話が入りました。信大からこども病院に移られた看護婦さんからで、「令子さん、出番だよ。うちの病院に力をかしてちょうだい」と彼女は言い、わたしはその時、これは大変な出会いになると直感しました。
病院での打ち合わせの中で、まず新人の看護婦さんの研修からしましょうということになり、「本は心の栄養剤」という題で、お話させていただきました。その中で、「病気の子どもたちにも、本は必要です!そして、その本を読んでくれる大人の存在が合わせて必要です」というお話を毎年させていただきました。
わたしが、こういう内容でお話させていただく原点にあるのは、お店を開いて4年目に「クシュラの奇跡」(ドロシー・バトラー著 百々佑利子訳 のら書店)という本と出会ったことが大きく影響しています。重い障害をもって生まれたクシュラという女の子の成長に関わった数多くの絵本についての物語は、ニュージーランドの子どもの本の専門店の著者がご自身の体験に基づいて提出した大学の論文がもとになっています。
「クシュラの読んだ本が、クシュラの人生の質をどれほど高めたか(中略)読んだ本は、クシュラの人生に大勢の友だちを与えたことこそ重要である」という力強く語るバトラーさんの言葉の一つ一つが、わたしの心を深く揺り動かしました。入院中の子どもたちにも、本の楽しさを届けたい、と強く思うようになりました。
ちょうど、「松本ゾンタクラブ」という女性の奉仕団体の方たちが、子どもの本を病院に寄付してくれるという大変ありがたい話が持ち上がりました。わたしは、すぐに病院に話に行き、本の寄贈にあたり、2つの事をお願いしました。1つは、毎週病院内のプレイルームで、その本を使って読み聞かせをすることを許可してほしいということ、あと1つは病院内にさまざまなボランティアを受け入れる体制をつくって欲しいということです。また、寄贈してくれるゾンタクラブの皆さまにも、本の寄贈に関して、一度にたくさんくださるのではなく様子をみて徐々に本を選書したいので、5年間にわたり毎年の寄贈という形をとっていただけないかとお願いしました。お話ボランティアの方も、長年地域で経験を積んだすばらしいメンバーに参加してもらうことができました。今でも活動は継続し、毎週金曜日には各病棟でのお話の会が開かれています。またこの活動が認められ、5年前に伊藤忠財団より助成金をいただく事になりました。そこで、その資金をもとにして「本と子どもの発達を考える会」を立ち上げることにしました。会の活動は、特別支援学級(学校)・施設での読み聞かせ、専門家をお招きしての病児・障害児理解のための公開講座などです。
そして、近年力をいれているのは、学校巡回展 いのちの本展~みんないっしょに生きている~と題して病気や障害への理解を深める本を貸し出し、授業の時間に本の紹介をさせていただくという活動です。
2014年4月から2015年3月まで、信濃毎日新聞に「虹のブランコ」という題で、会の活動の様子を連載させていただきました。ちいさいおうちのホームページで全てご覧いただけます。http://www.chiisaiouchihon.jp/
この活動に興味をお持ちになった方は、お店においでになった折に是非お声をかけてくださいね。
「本には子どもを助ける力があります。そして、そんな本を子どもに届ける大人が必要です」

 


クシュラの奇跡

クシュラの奇跡

ちいさいおうち

ちいさいおうち

 


 

第11回 乙女の輪 選択的夫婦別姓の立法をしないことは憲法に違反するか

 35回 百瀬まなみ

「選択的夫婦別姓の立法をしないことは憲法に違反するか」

国家賠償請求訴訟の形でこれを争った裁判につき、2015年12月16日、最高裁判所の判断が示されました。

当日、傍聴希望者の列は350人ほどに伸び、私を含め約150人が抽選を勝ち抜いて入場しました。

この訴訟には、2011年2月14日の地裁提訴の日から、応援団としてほぼすべての期日の傍聴をしてきました。上告に際しては、結婚改姓に伴う不利益や精神的苦痛を綴った陳述書を多くの人に呼びかけて書いてもらうことで、協力しました。

傍聴席の一部は上告人(原告)グループが占めていました。全員、夫婦で並んでいました。「死ぬときには本来の名前に戻りたい」の言葉で有名になった、現在80歳の塚本協子さんのご夫君も初めて参加、その姿を見て目が潤みました。

それなのに法廷で耳にした判決は、「夫婦同姓を義務付ける民法規定は、憲法違反には当たらない」というものでした。選択的夫婦別姓の実現を心待ちにしていた我々にとって、絶望的な内容でした。

私自身はこのとおり松本に多い「百瀬」姓。クラスに常に複数いて、ひどいときは女子だけで4人、ということもありました。呼び名も「まなみ」ばかりで、姓はどうでもいいと思っていました。

しかし、大学から東京に出てくると、「百瀬」と呼び捨てにされたり、「モモちゃん」というあだ名がついたりしました。やがて、「姓も名も両方大切、セットでこそ私の名前」と考えるようになりました。

結婚は1993年。夫の社宅にはいるために、会社に結婚後の戸籍謄本を提出しました。私の勤め先では通称使用ができましたし、戸籍の姓は一切使わず、公私共に百瀬のままで暮らすつもりでした。ところが、従来の口座で給与を受け取ろうとしたら、担当から「それでは架空の人物に支払うことになってしまう」と難色を示されました。「28年間生きてきた百瀬まなみが、合法的に抹殺された」と感じました。

1997年4月、海外旅行を目前にしてパスポート切れが発覚。また、転職も予定していました。仮に通称使用制度がある会社でも、それは独身時代から在籍する人に対する配慮であり、転職してきた既婚者の利用は普通、歓迎されません。ここでようやく、夫に離婚を承諾させました。既に自宅を購入し、社宅への義理立てもなくなっていました。

離婚後、会社も役所も、夫の姓を強制してこなくなりました。相続や税法上の扶養などの面で事実婚にはいくつか不便な点もあるのですが、自己の尊厳を守れるので快適です。

書類上とはいえ、離婚は尋常なことではありません。なかなか踏み切れない人もいます。このような裏技を用いなくても、夫婦がそれぞれ生来の姓を使えたらどんなにいいかと思います。

また、別姓夫婦の子どものことを心配する声が多いですが、経験からして、最初から両親の姓が違えば「我が家はそういうもの」と思って普通に育ちます。子どもは他の家庭と比べることなどしませんから、混乱しません。家族仲も良好、一人息子は法学部2年生となり、家族法を専攻すると決めています。

参考までに。現在は私が単独戸籍、夫と息子は同じ戸籍です。かろうじて住民票に「未届の妻」という文字がはいっており、夫婦らしいことがわかるようになっています。

今回の判決で、旧姓復帰を希望していた人、別姓婚の実現まで結婚を延期していた人がどれだけ失望したことでしょうか。姓の折り合いがつかなくて別れた、出産の適齢を逃したなど、現行法の下で幸せになれない人を数多く見てきました。この提案はあくまで「選択的」な別姓の導入に過ぎず、これまで通りの同姓結婚をしたい人の権利は何ひとつ侵害しません。これから結婚を考える子世代に、このような問題を先送りしてはなりません。

今後のことは国会に委ねられました。ここ数ヶ月の世論はおおむね「選択的夫婦別姓制度があってもいい」という方向に変わってきています。このことを踏まえ、多様性を重んじ、少数派の人権を守るような立法がなされることを期待します。

 


抽選券

抽選券
(注:私は当選して35番を提出してしまったので、これは連れの若い子のものです)

傍聴希望者の行列と報道陣

傍聴希望者の行列と報道陣

 


 

記者会見に引き続き報告会

記者会見に引き続き報告会

住民票の表記「未届の妻」

住民票の表記「未届の妻」

 


 

第10回 乙女の輪 ふるさとの詩

 19回 小林早苗

人は何故に絵を描くのだろうか。

父が油絵の道具を揃えて私に描くように勧めてくれたのは、高校1年の夏だった。帽子を被ったカール人形のバック一面を、花のような色で埋めた8号くらいの絵であったと思う。

それから50年の間に、私は仕事にも就いた。存分に描けない時もあったけれど、なんとか描き続けることが出来たのは半分意地のようでもあり、また当然とも思っていた。

私は学校で美術教員として、生徒達に自己表現の楽しさを知ってほしいと思い勤めた。誰でも自分自身にしか描けない絵がある。それを探す楽しさ、表現出来た時の喜びを味わって欲しいと願ったからだ。表現技術というものは、時間をかければ誰でも身につける事が出来る、その追求の過程の中で自分自身にしか出来ない形の捉え方や、色彩表現が生まれて来るのであり、その人にしか出来ないものであるからだ。

私自身は大学でデッサンを学び、モデルを沢山描いたが、自分の作品としてのテーマはなかなか見つからず悩んだ。自分は何を目指すのか。自分とは何か。興味の趣くまま身の回りの物や人々を描く、それしか出来なかった。

ある時、仕事の教材研究で出会った陶芸家河合寛次郎の『仕事が見つけた自分、自分を探している仕事』の言葉が私の心を捕えた。それは、自分自身仕事に取りかかる前から存在しているというのではなく、仕事として物事に取りかかっている中で、生きるという仕事によって自分が出来るというのだ。この言葉に励まされ、絵描きでなくとも楽しく仕事に取り組むことが出来、まさに仕事の中で自分を見出すことが出来た。

退職して10年、私の中心には、いつも信州の自然が息づいている。朝の目覚めとともに2階の窓のカーテンを開け、東の鉢伏山を見る。そして、西の部屋のカーテンを開け、北アルプスの山並みを眺める、それが日課である。仕事に疲れた時、いつも癒してくれるのは、信州の自然である。上る太陽、青い空、昼間の月や夕陽、雨でさえ私の傍らに来て、母のようにやさしくいたわってくれ、山々は父の背中のように安心を抱かせてくれる。そう、自然の無償の愛は大きい。「人間として人間達を育ててくれる力の根源」。この信州のふるさとが与えてくれた喜びを描こう。私はいつの間にか絵のテーマが、ふるさとの自然への賛歌、祈りになった。

4年前の東日本大震災による地震、津波、福島の原発事故の記憶は、我々に何を語っているのだろうか。地球の美しい自然も、宇宙の永遠の営みの中にあって、無力である私は祈りを籠め描きつづけるだけである。

 


5月の風

5月の風

五月

五月

 


 

雲と遊ぶⅡ

雲と遊ぶⅡ

夏だより

夏だより

 


 

赤いチョッキの女

赤いチョッキの女

旅路

旅路

 


 

遥かなる大地

遥かなる大地

 


 

第9回 乙女の輪 心を求める旅路~深志から全国へ

 40回卒 北澤知奈美

皆様こんにちは。40回卒業の北澤知奈美と申します。私は、東京・吉祥寺に本拠を構える劇団前進座で、女優として活動しております。
 劇団前進座は、1931年5月創立、来る2016年には創立85周年を迎える老舗劇団です。1931年と言えば、9月に満州事変が勃発し、庶民の生活の中に戦時色が色濃く影を落とし始めた年です。その中で、厳格な世襲制により役者の間に大きな格差のあった、歌舞伎の世界から若い役者が飛び出して、「広汎な民衆の進歩的な要求に適合する演劇の創造」を理念に掲げて創立したのでした。歌舞伎もやれば、現代劇、ファミリーミュージカルなども上演する、そんな「演劇のアミューズメントパーク」ともいえる劇団に私が入座したのは、1988年に深志を卒業して、前進座附属養成所で1年間みっちり学んでの事でした。入座して2年たった1991年には、私自身が役者を志した原点ともいえる『さんしょう太夫』という作品で主役のあんじゅ役を頂き、芸術鑑賞会として母校の皆さんにご覧頂けた事は、本当に光栄な事でした。

前進座は、「芝居が観たい」という全国の皆様の声に応えて、津々浦々にまいります。時には災害地の要請にも応えてまいりました。雲仙普賢岳の噴火に苦しむ島原市や、新潟県中越地震の被災地、そして、2011年の東北大震災直後の東北、福島県下。私達が伺ったのは、仮設住宅すらもまだ準備されていず、多くの被災者が体育館などの過酷な条件下で過ごされていた6月でした。あのような大災害を目の当たりにした時、演劇などに一体何が出来るのかと、無力感に苛まれたものです。しかし、目を覆うばかりの惨状の中で力強く立ち上がろうとしている地元の皆さん、舞台上に展開する物語に目を輝かせて笑い、涙し、「来てくれて本当にありがとう」と喜んで下さった皆さんの姿に接し、私達出演者もあふれる熱い思いを抑える事が出来ませんでした。役者を続けていて本当に良かった・・・ほんの僅かでも人の力になれる、という喜びを実感したのでした。

震災以後、日本人本来の大きな美徳である、人を思いやり助け合う気運が高まっていますが、その一方で若年層による想像力を欠いたような悲しい事件も起こっています。演劇人として、一人でも多くの皆様に温かい心、豊かな心をお届けしていくのが私達の務めだと、心に定めながら活動しております。深志で学んだ探究心、あきらめないエネルギー・・・それらをフル活用して、これからも「心の栄養」をお届けしてまいりたいと思っております。
 各地を巡っておりますと、思わぬところで深志同窓の方にお会いする事がございます。全国どこに行っても同窓の方がいらっしゃる、「深志」の名が知られている、こんな高校はごくわずかだと思います。私も、全国の同窓の皆様、蜻蛉乙女の皆様のご活躍に勇気を頂きながら、自分の選んだ道を究めて参りたいと存じます。どうぞお見知りおき頂き、応援して頂けましたら有り難く存じます。

 


母校の舞台で『さんしょう太夫』あんじゅ役

母校の舞台で
『さんしょう太夫』あんじゅ役

楽屋風景 舞踊『雪祭五人三番叟』

楽屋風景
舞踊『雪祭五人三番叟』

 


 

五木寛之作『旅の終わりに』炭鉱のおばちゃん役も

五木寛之作『旅の終わりに』
炭鉱のおばちゃん役も

主演作 松本清張作『或る「小倉日記」伝』

主演作
松本清張作『或る「小倉日記」伝』

 


 

(※画像クリックで拡大表示します)


プロフィール 北澤 知奈美 - 前進座

第8回 乙女の輪 35周年記念行事と「かりんとうの会」

 31回卒 井上 真由巳

「深志31回生卒業35周年を祝う会」を2014年(平成26年)6月21日土曜日に深志教育会館に於いて、盛大に行うことができました。
 メイン行事は同期生で二期会会員のバリトン歌手太田直樹くんのリサイタル。
 1部はシューベルトの歌曲を中心に、2部は同窓生から寄せられたリクエストの曲を含めポップス等々、幅広いジャンルからの選曲で、さすがはプロのオペラ歌手、色々な歌の表情を魅せてくれました。太田君のギター、日野実行委員長のバイオリンでの共演が見られた「神田川」、即興で太田君がピアノの弾き語りを披露してくださった「Let it Be」は会場中大いに沸き、盛り上がりました。
 太田君の歌声は教育会館に響きわたり、リクエスト曲に寄せられたメッセージやコメントも披露され、舞台と客席が一体感に包まれた素晴らしいリサイタルになりました。

その後、来賓としてご臨席いただいた恩師の先生方(根津先生・山田先生・太田先生・野村先生)を囲んでの懇親会。先生方からはご自身の近況や私たちが在学していた当時のクラス替えのエピソードなどのお話をいただきました。今回残念ながら出席していただくことのできなかった病床の草間先生からはビデオメッセージが届けられました。
 先生方のプレゼント用と生徒用に2種類作成した35周年記念Tシャツも好評で(野村先生はその場で早速着用してくださいました。)企画した実行委員としてとても嬉しかったです。笑顔が溢れ和やかな暖かい懇親会でした。
 浅間温泉での2次会、31回生も大勢が35周年記念Tシャツ着用で2次会に参加、話に花が咲き、都合のつく方は朝まで・・旧交を温めました。

私たち深志31回生は同窓会や同期で集うことをしてこない学年でした。そんな私たちでも在校生に向けての「尚学塾」と「30周年記念事業」はやらなくてはいけない・・・。そう、まさにやらなければ、という義務感から始まった30周年でしたが、会議を重ねるうちに、卒業30周年を機に再び出会えた仲間との絆が深まり、毎月第三金曜日に集う「かりんとうの会」を行うようになりました。「かりんとうの会」で様々なアイディアが出され30周年以後、「31回生が31周年を31日に祝う会」という語呂合わせのような集まりや、学年全体での「忘年会」、「東北支援!修学旅行in福島」とイベントを行ってきました。クラスを超えての仲間の輪が広がっています。35周年記念行事を終えた今、次回のイベントの案が上がってきています。ご期待ください。

どうぞ毎月第三金曜日、午後7時日野薬局集合の「かりんとうの会」にご参加ください。お待ちしています。

 


太田君ギターと日野君のバイオリン

太田君ギターと日野君のバイオリン

恩師の先生方

恩師の先生方

 


 

Tシャツ披露

Tシャツ披露

恩師贈呈用T仕上りイメージ

恩師贈呈用T仕上りイメージ

 


 

記念T生徒用表仕上りイメージ

記念T生徒用表仕上りイメージ

35周年2次会

35周年2次会

 


 

2次会 集合写真

2次会 集合写真

解散前集合写真

解散前集合写真

 


 

(※画像クリックで拡大表示します)

第7回 乙女の輪 震災の際の細かなこと -津波、家の倒壊、火災などのない場合-

 21回卒 牧野 恵子

あの大震災から、もう少しで3年が経とうとしています。現在は余震もほとんど無く、以前と同じような日常生活を送っていますが、東南海トラフの大地震の不安が高まっています。防災グッズや食料品の備蓄などは、マスコミで様々取り上げられていますので、私はもっと細やかな、気がついたことを、二、三記そうと思います。


震災の風景2

まず、最初の大きな揺れが来た時に、胆を据えて下さい。決して、肝を潰さないで‼信州女は強いのですよ。
 次に、マスコミの説などとは異なりますが、家がまあまあ無事なら、なるべく家に戻り、ご近所で助け合うのも選択肢としては、ありです。保存食や冷蔵庫の物を出し合って、コンロのある人はコンロ、水のある人は水などみんなで持ち寄れば、震災時とは思えない、美味しく温い食事も出来ますよ。


震災の風景

水...水はとても大切です。常日頃から、ご近所に湧き水や井戸のある所をチェックしておくのも良いと思います。私も、給水車が来てくれるまで、かなりタイムラグがありましたが、水質検査に合格した湧き水が近くにあり、助かりました。ただ、運搬に要する力は想像を絶します。灯油の一斗缶を200メートルの登り下りのある道を、余震の揺れの中運ぶ毎日は大変でした。給水車が来ても、そこから自宅まで、それもエレベーターが止まった上階までは、女性ではまず無理です。遠慮せずに、若い男性に助けてもらいましょう。通りすがりの方でも、快く引き受けてくださいますよ。
 そうこうしているうちに、お店がチラホラ開き出し、大行列です。待ち時間の情報交換も大切ですが、その時必要なものは、小銭です。一万円札、五千円札は敬遠されます。小銭を毎日少しずつ貯めておくと良いでしょう。


震災の風景3

最後にもう一つ、細切れでもいいので、眠って下さい。夜、暗い中余震が続くとあまり眠れません。明るいと揺れても逃げられるような気がします。決して悲観的にならず、みんなと仲良く、それでも結構必死に毎日を過ごしたら、行く手は、はるかでも望めると思います。
 しつこいようでも、もう一度、蜻蛉女子は強い‼耐えることも忍ぶことも、工夫することも応用することも出来ます。慎重、だけど大胆な働き者でもあります。
深志おなごに、さかえあれ!!


第6回 乙女の輪 祝!「第3回科学の甲子園」長野県大会優勝

35回卒 塚原 正子

「科学の甲子園」って、ご存知ですか?
 高校1~2年生6名がチームとなって、数学、理科(物理、化学、生物、地学)、情報の3教科6科目の難題に挑み、その成績を競う大会。2011年に始まって、今回で3回目を迎えます。県大会を行って、その優勝校が兵庫県西宮市で行われる全国大会へ出場する、という、まさに「科学」の「甲子園」なんです。
 今回の長野県大会は、飯山北、長野、屋代、大町、松本深志、東海大三、諏訪清陵、箕輪進修、伊那北、飯田の10高13チームが競い、我らが深志高校が初優勝!!
 初優勝、ということは・・・。そうです。第1回大会は諏訪清陵が優勝。第2回は長野高校。そして第3回、ついに勝ったのです!(拍手)


実は私、地元のAMラジオ局でパーソナリティーをやっておりまして。
 ※SBCラジオ「もっとまつもと」月曜~金曜 13:30~
 ・・あ、これ、宣伝です。図々しくてすみません。よかったら聞いてくださいね。

番組でぜひ紹介させてくださいと学校に申し入れたところ快諾をいただき、科学の甲子園に出場する8人の生徒たちに会ってインタビューする機会をいただきました。


「科学の甲子園」出場の生徒たち

番組が始まって以来、地元の高校生と話すことも何度かあったのですが、深志高校の生徒は今回が初めてでした。まず感じたことは、深志は違う!
 ① マイクを向けると、しっかりとした口調で、理路整然と話す。
 ② 聞き手が求めていることを瞬時に理解し、それに合わせた話ができる。
 ③ 仲間の話をフォローし、内容をふくらませることができる。
これ、他の学校の生徒には感じなかったことでした。


例えば・・・。「どんな問題が出たの?」という私の問いに答えてくれたシーン。

A君
「僕は生物分野の問題を担当したんですが、ミツバチの距離の感じ方とかハチのコミュニケーションなど行動学に関する問題でした。」
「ハチ? そんなのハチになってみなきゃわからないことじゃないの?」
(ちょっと意味がわからない・・・という私の表情を見て、B君が話し始めました。)
B君
「僕は数学の担当だったんですけど、どの分野も、授業で学んでいることは一切問われず、吟味力や記述力、発想力が問われる問題が出るんです。日頃の問題演習の積み重ねによって、幅広い角度から具象を観察する力がつくと思うので、こつこつ努力を重ねることが大切なんです。」
C君
「僕は地学を担当しましたが、地学の問題は物理の知識がなければ解けない問題が多かったので、物理が得意なメンバーに協力を仰いで、自分のできることに専念しました。チームで一つの問題を解くのも、日常では経験できないので楽しかったです。」


そしてリーダーが
 
「個人の知識だけでは解けない問題が数多くあったので、それぞれの力を結集して協力し合って問題を乗り越えてこられたのがとても嬉しく思います。自分の"できる" "できない"を素早く判断することも大事で、それが勝利につながったと思います。」


 それぞれの分野でトップの成績をとるこの8人は、「成績がいい」だけではなく、自分自身の力をきちんと理解し、できないことは仲間にお願いする勇気を持ち、仲間を大切に思う心を持っていました。それに、みんな素直で明るくて、本当にいい子たちでした。全国大会ももちろんですが、彼らがこれからずっと輝き続けることを願い、微力ながら応援していきたいと、心から思いました。
 「日本の未来は明るい!」そう確信したインタビューでした。

全国大会は、3月21日~24日に開催されます。優勝校は科学の全米大会であるサイエンス・オリンピアドに特別参加できるそうです。 みんなで応援しましょうね! 頑張れ、松本深志!!


  参考リンク:「科学の甲子園」第3回長野県予選会が開催されました(信州大学 理学部 「お知らせ」)

第5回 乙女の輪 うたごころ

32回卒 野尻 光

中学・高校・大学と部活はずっと合唱部だった。
 中学時代、最大の目標はNHKコンクール。私の所属していた中学は古くは全国大会で入賞したこともある常勝合唱部だったのだが、肝心の中3の時まさかの地区大会敗退!それまでの人生最大の負けを喫した。
 高校に入ったら、その時の宿敵と同じ部活に。しかし、彼女たちは皆、気さくで熱心、一緒にいて楽しく信頼が置けた。ああ、負けて当然だったんだ、と。高校時代の最大のイベントはとんぼ祭公演。作り上げる喜びを存分に味わい、昨日の敵とは生涯の友に。
 大学でもやっぱり合唱団に属したが、社会人になってからは、途中日本を離れていた時期もあり、20年近く合唱とは遠ざかっていた。そんなころ「サイトウ・キネンで1000人合唱の舞台に立ちました。」という年賀状を友人からもらった。小澤征爾さんの指揮でSKOをバックに歌ったという。「羨ましい!」歌いたい気持ちを刺激された。その後Uターン、松本へ。


深志教育会館での練習風景

深志教育会館での練習風景

松本は「楽都」を謳っていて、音楽に関わりたい人にとって素晴らしい場所だ。私もこの地の恩恵を受けながら、少しずつ「うたごころ」を遊ばせ始めた。
 深志の音楽部卒業生と現役生からなる「志音会」。2006年に母校の創立130周年を祝して記念の音楽会を開いた。120周年の時は遠方にいたことを理由に失礼してしまったが、このときは喜んで参加を決めた。演目はモーツァルトの「戴冠ミサ」。久しぶりにオケをバックに歌える喜び。合唱も10代の高校生から80歳過ぎのOBまで、多彩な人々で構成され、モーツアルトのキラキラした音を響かせた。志音会メンバーにはかつての友が多数。ミニ同窓会が楽しかったのは言うまでもない。


戦争レクイエムは翌2010年ニューヨークでも公演

戦争レクイエムは翌2010年
ニューヨークでも公演

プロの厳しさと、至福の音楽との両方を最大限に味わったのは、2009年SKFでの「戦争レクイエム」。一般公募合唱団の一人になれたのだが、送られてきた楽譜を見て蒼白...。自分の出すべき音が全く想像できない。不安な中練習がスタート。指導者の要求は高度で、音程の正確さ、強弱、はもちろんのこと、「音量はピアニッシモだが、鋭い音で、2階席の一番奥まで届く声」のような表現者としての最大限を求められた。練習も終盤になり、小澤征爾さんの指揮、SKOとの音合わせになると、まずはオケの音の素晴らしさに圧倒された。それまでは、観客としてあちら側からしか聞いたことがなかった音が間近で鳴り響いている。聞き惚れている場合では全くないのだが、こんな素晴らしい音と一緒に歌っちゃっていいの?という怖れに似た感情に包まれた。マエストロの言葉の魔術にも驚かされた。指揮者は自分では何一つ音を出すわけではないのだが、どんな音を欲しているのか言葉で伝えていく。マエストロの「例え」は想像しやすく的確で、一言で音楽がガラッと変わるのを何度も目撃した。あまりに素晴らしい体験ができたので、私は「恩返ししたい」という気持ちになった。誰にというのでなく、この幸福な体験のおすそ分けをしたいという。


カルメン練習中

カルメン練習中

目下の「うた」目標は、オペラ「カルメン」。これはまつもと市民オペラの第4回の公演で12月23日に市民芸術館で上演される。前回「魔笛」の公演から約2年、今まで練習してきた成果がいよいよ舞台で結実を迎えようとしている。
(公演の詳細はこちらから


魔笛カーテンコール。パパゲーノは同窓生の太田直樹さん!Photo by 山田毅

魔笛カーテンコール。パパゲーノは同窓生の
太田直樹さん!Photo by 山田毅

今回の幸福は演出家・加藤直さんと1年以上ワークショップで舞台のイロハを学べたこと。必然があっての演技であること、自分はカルメン派なのかアンチなのかそれを決めるだけで体の向きだって変ってくる。舞台にある種の真実が持ち込めるよう、鋭意努力中である。第3回の「魔笛」は音楽会を「寝場所」と思っている息子をして「面白かった!」と言わせしめた素晴らしい舞台だった。この時も演出家白井晃さんの着想に舞台上にいる私達が一番楽しんでいたと思う。どうぞ「カルメン」もご贔屓に。
 私の「うたごころ」、幸せをみんなにおすそ分けしながら充実させていきたい。