お盆の時期は暑い日が続いていた。蝉の声が響き、青空に入道雲の白さがまぶしい、そんな光景が目に浮かぶ。甲子園では高校球児が熱戦を繰り広げ、テレビで見るのが例年の楽しみであった。8月15日の終戦を意識したドラマや特集が組まれ、真夏がピークに達していた。
今年は、長袖、長ズボンで秋の訪れを感じるお盆となった。天気図には梅雨前線が描かれ、大雨特別警報の文字が躍っている。地球温暖化の影響とも言われているが、異常気象であることは間違いない。
日本には多くの里山がある。小川が流れ、緑の木々に覆われ、豊かな自然に溢れ、人々の暮らしを支えてきた。コンクリートとアスファルトに覆われた都会の暮らしに疲れた人々に癒しの空間となっている。しかし、里山も人工的に作られた空間である。いずれも人工的に作られたものに違いはない。にもかかわらず、里山には安心感がある。なぜだろうか。
里山には長い歴史があることだけではなく、自然に対する心構えに違いがあるのではないかと思う。人類は近代化の中で、自然に対する恐れや敬意を忘れ、人間の非力さを忘れ、人間の傲慢さを前面に便利さを追求してきた。
コロナの驚異も含め自らの非を認め、暮らしの在り方を問い直す時が来ている。特に、これまでの時代を作り出してきた老人が率先する必要があると感ずる。若者はすでにそのことに気が付き実践している。
暑い夏の日に夕立が涼しさをもたらした日々が懐かしい。夕立は死語になりつつある。