【第215号】ロマンの同窓会長、花岡堅而

 花岡は、南安曇郡北穂高村(現安曇野市)の高橋家の5男として明治43(1910)年11月に生まれた。母は井口喜源治(松中7回卒)の研成義塾で学んだ。5人兄弟全員が松本中学卒だった。
 大正13(1924)年4月、松本中学校入学し、昭和3(1928)年3月に卒業(松中49回卒)。4月に松本高等学校に入学し、6年に卒業、4月に新潟医科大学に入学した。卒業後、12年に結婚して花岡姓となる。
 「私は、大学時代に、サーべルのもとに屈服するのがいやで、軍事教練にはまるで出なかった。服もたくさん無かったし、匍匐前進などという、ひじとひざで腹ばいになって進むことなど好まなかった。ところが、岡谷病院に勤務中に、召集を受けることになった」。
 昭和18年5月に応召、軍医として中国戦線に赴く。21年5月に復員して、岡谷病院に復職。昭和45年4月、長野市医師会長。51年4月、長野県医師会長。
 昭和57年4月、花岡堅而は日本医師会長に当選。2度目の会長選挑戦だった。投票総数224票のうち花岡121票、武見路線の継承者だった宮城県医師会長103票、白票3票だった。「開かれた医師会」を掲げた非主流派花岡の会長当選は日医の地殻変動とも呼ばれた。会長2期目の再選は果たせなかった。
 深志高校創立110周年の祝典を終えた降旗徳弥同窓会長(松中37回卒)が退任、花岡が会長に推された。「同窓会とはロマンである」が持論だった。
 創立120周年の記念式典に、花岡は病後の不自由な体を杖で支えながら長野から駆けつけ、同窓会長として式辞を述べた。
 花岡が病に倒れたあと会長代行となった穂苅甲子男は(のちに同窓会長、松中63回卒)、「花岡先生は権力思想が大嫌いなリベラルな考えの方でした。」と述べていた。
 平成9年(1997)4月に亡くなった。

*さきのコラム2回は、中島博昭氏(深志4回卒)から私(小松)宛に投稿があったので、紹介しました。


筆者紹介 : 小松 芳郎