【第160号】アンドロイド観音

京都の高台寺では、アンドロイドの観音様が般若心経を語る時代となった。以前、仕事の関係で複数の人たちにステレオタイプの説明をする時に、「テープレコーダーにでも吹き込んで流したいものだ。」と冗談を言っていた時代もあった。そう考えるとこんなやり方もありかなと思ったりする。

その一方で、ホテルのフロントで説明を受ける際に、こちらからの質問などものともせず、一方的な説明に終始する応対を目にすると、アンドロイドでも十分ではないかと思ったりする。

最近の若者について、マニュアルがなければ何もできないとの批判があるが、ある意味、AI化が進んでいるとの見方もある。学校現場でも、個性化と裏腹に生徒の画一化が進んでいると感じるときも多々ある。

生まれた時からある種の規制と一定の枠組のなかで育ってきていることを考えると、仕方ないとも思うのだが、やはり違和感を感じる。育てやすさ或いは育ちやすさの反面で育てにくさ或いは育ちにくさを実感することも大切なのではないかと思う。

筆者紹介 : 水野 好清