【第213号】「流浪の民」混声合唱(下)中島博昭

 この催しは、いっさい新聞にも取り上げられることはありませんでした。わたしたちには、強烈な印象を残したものでしたが、「幻」のように記憶の底に沈んでゆきました。
 ところが70年も経った近年になって、突然大西葉子さんからわたしのところへ電話が掛かってきたのです。もう90歳代にもなった彼女は東京に居て、結婚して「南条葉子」となっていました。じつはわたしの妻の姉と同じ豊科高女で同級生だったのです。そんな関係から電話ではあの混声合唱のことが話題にのぼりました。

「あら、あの混声合唱のきっかけはkさんとわたしとの交際じゃないですよ」。電話の南条葉子さんの声は艶やかでした。
「小学校の頃から音楽が好きで合唱をしてきましたが、みんな女声合唱ばかり。よくても三部合唱のみで満足できない。混声合唱をしたいって顧問の合津年子先生に相談したんです。そしたらちょうど深志から転任してきたばかりの野溝専造という修身・公民の先生に話したらということになり、野溝先生が間に入って実現したのです」。
「そういえば、このころは男声合唱部といえば、まだ深志きりなかったんですよね」。
「そうだったんですね」。
「ではkさんがあなたのお家を訪れて好きになったから、というんじゃないのですね」。
「そうですよ。わたしの家へ来てくださったのは合唱がはじまってからです。実は、そのとき、付き合ってくれっていわれたのです。わたし、まだ子供だし男の人と特別の関係になるのはいや、ってお断りしたんです」。
「えっ、そうなんですか。ではずーっとお付き合いしたんじゃなかったのですか」。
「そう。そしたらkさん、泣いてしまって」。

 そして、続けて話してくれた事実はそれを証明するに十分でした。
「その後、kさんがプロの歌手になり、発表会をしたとき招待してくれたんです。受付で記念に名前を書いていたらkさんが出てきて、わたしと一緒に行った友人にわたしを指して『この人、僕のこと、振った人なんですよ』なんて言ったのです」。
 話は「流浪の民」の合唱のことに及び「その後、長く合唱をしてきましたが、この時の『流浪の民』は一生忘れられない思い出ですね」と声を弾ませる彼女でした。
 何はともあれ電話で聞いた事実は、わたしたち青春の甘美の思い込みとまことしやかな解釈を裏切るものでした。
 いま考えるとこの混声合唱は、少なくとも敗戦後松本地方での初めての他校交流の混声合唱だったように思えます。

中島博昭 : 1934年、長野県安曇野市穂高柏原に生まれる。現在、地域史研究家、安曇野市「みらい」運営委員長、安曇野文芸編集長、安曇野塾運営委員。長年、松本深志高校など県内高校の社会科教師や県短期大学の講師を務めるかたわら、松沢求策はじめ郷土の優れた人物や文化財の掘り起こしと顕彰、地域づくりに尽力してきた。(「犀川 川筋ものがたり」より)


筆者紹介 : 小松 芳郎