【第193号】戦時下、陸軍飛行場の勤労動員

 昭和18(1943)年10月、陸軍省からの突然の命令で、今井・神林・笹賀の3か村(現、松本市)の約208haの土地が提供されて飛行場建設がはじまった。工事は熊谷組が請け負い、朝鮮半島から多くの人びとが雇われた。さらに中信地区の翼賛壮年団、近隣の住民、生徒、国民学校高学年児童も勤労奉仕に出動し、人海戦術で工事が進められた。その延べ人数は10数万人にも及んだといわれる。
 滑走路部分の工事は、松林が伐採され、段差をなくして全体を平坦にするため、くぼ地を埋める造成工事が最初だった。小型の鉄軌道が敷かれ、トロッコを使って土砂の運搬がおこなわれた。
 松本中学の3年生は、昭和19年5月6日から1か月間、4年生は6月6日から1か月間、動員された。北にやや傾斜している土地を整地し、芝を植え、誘導路を造成する重労働であった。東側の笹賀寄りには格納庫が6棟建てられ、本土決戦にそなえて残存した多くの機種が疎開避難してきたので、それらを空襲から守るため誘導路によって周囲の林の中や鎖川対岸の山形村地籍にまで分散遮蔽した。現在も、格納庫の礎石の一部がのこっている。
 松中生の勤労動員は、この整地作業や誘導路造成作業等であった。連日の出動に松本・村井間の汽車(午前7時14分松本発、午後5時30分村井発)が提供されたが、ツルハシとトロッコの作業は困難をきわめた。9月からは、3、4年生がふたたび1か月出動した。
 飛行場への勤労動員は、上級学年の軍需工場への通年動員にともなって、下級学年が受けもつことになり、遮蔽軍用機の出納作業等が敗戦まで継続された。
 20年度の松中生の勤労動員は、新2年生が出動して軍用機の離偕陸毎に隠蔽場所から引き出したり格納したりする作業と、和田国民学校に疎開していた航空機工場で、発動機の分解掃除組立の作業とに従事した。
 75年前の8月20日、勤労動員の学徒の出動はすべて停止された。

筆者紹介 : 小松 芳郎