【第169号】梓川の中沢重雄(臨川)

中沢重雄は、明治11(1878)年10月、伊那郡南向村大草(現、上伊那郡中川村)の塩沢家に、次男として生まれた。長兄は村長、次弟は信州でただ一人の海軍大将になった。塩沢家は代々庄屋の家で、養命酒の醸造元「天竜館」だった。

25年に南向小学校を卒業した重雄は、5月に旧松本城二の丸にあった長野県尋常中学校に入学。とくに数学が好きで成績も抜きんでていた。

重雄が3年生の6月に『校友』が発刊され、編集役員の1人となった。当時のペンネームは「槿花庵」(むくげあん)。

30年3月に中学を卒業した重雄は、9月に仙台の旧制第二高等学校に入学。天竜川への望郷の思いをこめ、2年生のころ「臨川」(りんせん)と号を変えた。32年8月9日、3年生直前の夏休みに、南安曇郡梓村(現、松本市梓川)下角影の大庄屋中沢家の養子となった。

34年に東京帝国大学工科大学へ入学した臨川は、電気工学を専攻、妻をつれて上京した。35年5月に文芸雑誌『山比古』を出版。同人は、松本中学同窓の窪田空穂・吉江孤雁らだった。37年に卒業後、東京電気鉄道会社技師となり、のちに京浜電車鉄道会社の電気課長となり、エンジニアと文学者の両道をすすんだ。

38年5月、処女論集『鬢華(びんか)集』を出版。大正3年(1914)からは『中央公論』の文芸評論を担当した。島崎藤村も臨川を信頼し、『家』の序は臨川が書いた。藤村の実兄広助の娘が、藤村の子を宿した時、フランス行きの知恵を授けたのが臨川だった。

大正5年に故郷にもどった臨川は、松本市白板の日本大阪アルカリ会社技師長に転職。7年には、白板に中沢電気工業株式会社を設立し経営者となった。7年には、ふたたび一家をあげて上京し、家を建てて住んだ。しばらくして喉頭結核を患い、療養したが、9年8月9日、42歳で亡くなった。

私は、8年ほど前に中沢家の古文書調査をしたが、臨川の文書もいくつかあり、いまも整理をしている。

筆者紹介 : 小松 芳郎