【第145号】永山盛輝と開智学校

筑摩県権令の永山盛輝は、明治5年(1872)5月、松本・諏訪・高遠・飯田の各地の藩学を結集して、筑摩県の最高学府「筑摩県学」を、松本南深志町女鳥羽川沿いの旧全久院廃寺跡に創設した。ついで学制発布をうけて、6年5月、これを第一番小学開智学校として開校式を挙げた。校舎が新築されたのは9年4月のことだ。

この開智学校内に、9年7月10日に開設された第十七番中学変則学校は、長野県最初の旧制中学校であり、松中・深志の出発点となった。

権令といえば、いまでいえば県知事だが、筑摩県の初代権令の永山盛輝は、鹿児島藩士の家に文政9年(1826)に生まれた。生誕地は、西郷隆盛・大久保利通らが生まれた地域と隣接していた。盛輝は、西郷隆盛より1歳年長で、明治維新の原動力となった薩州下級士族集団のなかでは最年長であった。大政奉還の後は、大久保利通・西郷隆盛に随行して連日公務をこなしていた。

明治4年11月に、筑摩県参事として松本に着任したときは46歳であった。

永山盛輝は、「学校権令」と人びとから噂されたほど、教育に対する施策と情熱を傾けた。着任するとただちに「学校創立告諭書」を発し、学校創設を強く訴えた。明治政府が学制発布する5か月前のことだ。

永山は、自ら先頭にたって県内の巡回説諭をおこなった。7年3月から60日間、諏訪・伊那両郡230余校を視察、8年8月から3か月間、安曇・筑摩郡内の101校と、筑摩県内だった飛騨3郡を視察・巡回した。先ざきで「一切の無駄を省いて学校を創設せよ」と啓蒙したのである。その結果、筑摩県内の学校就学率は全国第1位、開かれた小学校の数580余校に達した。

今年の5月27日に、私は鹿児島市に出かけ、「西郷どん」の大河ドラマ館で、地元の人たちに、永山盛輝と開智学校の話をしてきた。その日の夜、市内で薩摩信州の会の人たちとの懇親の場で、何人かの深志同窓会の方々とも交流を深めた。

筆者紹介 : 小松 芳郎