【第127号】『同窓會々報』の題字は、中山久四郎

毎年一回、同窓会員に発送される会報は、今年は年末に届けられる。復刊で第24号となる。この題字は、中山久四郎である。

先日、信濃教育会博物館で『説諭要略巻之一』の原本を見ることができた。筑摩県(県庁は松本城旧二の丸御殿)は、学校設立と児童の就学をつよくすすめた。当時の永山盛輝権令(現在の知事)は、自らその先頭に立ち、明治7(1874)年に諏訪・伊那郡を、8年には筑摩・安曇郡と飛騨へと、くまなく巡回した。みな当時の筑摩県の管轄内だ。

諏訪・伊那地方の230余校を巡回説諭したときの模様を、随行した長尾無墨が記録し、県下に配布されたのが『説諭要略』だ。この原本の裏に、「中山久四郎氏寄贈」と書かれてあったのだ。

『深志人物誌Ⅱ』(平成8年12月刊)には、久四郎は「東洋史開拓の先達者」として紹介されている。

明治7年に北佐久郡馬瀬口村(現、御代田町)に生まれた。19年に長野県尋常中学校に入学。一県一校制が施行され、長野県中学校松本支校は、長野県尋常中学校と改称された年である。13歳の久四郎は、この尋常中学校を受験、志願者は40余人、合格者は23人だった。23年に県尋常中学校を卒業(松中10回、19人中の一人)。

明治24年に第一高等中学校(東京)に入学。久四郎は、松本中学『校友』創刊号(明治28年11月)に、「東京通信」と題して、一高の実情や校友会活動を中心に寄稿した。その後も『校友』にしばしば投稿している。

29年に東京帝国大学文科大学漢学科入学。32年卒業だが、卒業成績優等のため恩賜の時計を授与された。34年ドイツ留学。38年、広島高等師範学校教授、40年、東京高等師範学校教授となった。

久四郎は、歴史学者であると同時に漢学者であったが、歴史教育の面でも大きな業績をあげている。大正15(1926)年に歴史教育研究会を設立して、この会の代表となり、月刊誌『歴史教育』を創刊した。

昭和36(1961)年9月7日、87歳で逝去。

筆者紹介 : 小松 芳郎