【第115号】降旗康男監督の高校時代

『週刊文春』の「新・家の履歴書」に映画監督の降旗康男さんが載った(4月27号)。そこで、深志高校時代を語っている。

降旗さんは、昭和9年(1934)生まれ。「僕が生まれ育った浅間温泉は、当時はほとんどの旅館が夏の間は蚕種の製造もやっていたんですが、うちも昔は屋号を『金田屋』といって蚕種業を営んでいた」。生家は400坪の敷地に建つ本棟造り。板葺きの屋根の建物2棟、それぞれの2階が蚕部屋になっていた。

戦時下、隣りの旅館には特攻隊員たちが大勢泊まっていた。疎開してきた子供たちも大勢いた。

22年、降旗さんは本郷中学校に入学。2年生の時に父親の降旗徳弥氏が逓信大臣に就任(のちに松本市長、深志同窓会長)。25年に松本深志高校へ進学する。

「新制中学誕生の祝いとして占領軍から野球道具一式が贈られたんです。もう授業そっちのけで朝からグラウンドと道具の取り合いでした。理科室から電球とコードを持ち出して校庭の桜の枝に張り巡らせてナイターまでやった。ところが、町の人たちから『電気不足の時に何事だ』と非難を浴びて、校長命令で即刻中止になりました。」

「高校までは徒歩で四十分ぐらいかかりましたから、寝坊してバスに飛び乗ることもありました。学校に慣れると、午前中だけ授業に出て、部室で寝ている運動部の友人の代返をして、午後は逆にそいつに僕の代返を頼んで映画館に直行です。その頃観たフランス映画の印象が強くて、それがきっかけでシャンソンが好きになりました。ただ、『パリ祭』の元歌を聴くと訳詞が違っているんですね。元歌を歌いたくて、仲間六人とフランス語の勉強を始めました。そこに、プルーストの『失われた時を求めて』を原文で読みたい」という幾何の先生も加わった。次の年にはフランス語が正教科になったおかげで、僕は初歩的な問題しか出ない第二外国語で大学を受けられたので、ラッキーでした。」

降旗康男さんは、このたび第24回信毎賞を受賞された。

筆者紹介 : 小松 芳郎