【第111号】松本中学のロックガーデン

深志同窓会名簿に松本夜間中等学校の旧職員に河野齢蔵の名がある。担当教科は「校長・修身」と記されているが、「在任期間」の記述はない。

県の認可を得た夜間松本中等学校は、河野齢蔵を校長に迎え、大正13年(1924)6月3日、市立松本女子職業学校々舎で開校式をあげた。

齢蔵は、安曇郡犬飼新田村(現、松本市島内)に生まれ、この大正13年3月に諏訪高等女学校を退職、一家で新田町の実家に戻っていた。そして同年の4月15日に松本第二中学校(現、松本県ヶ丘高校) で教授嘱託となり、博物学を7年間教えた。

大正15年4月に、河野齢蔵校長が退職し、松本中学校長の羽石重雄が校長を兼ね、校舎も松中校舎の一部を使用することとなった。

高山植物研究では第一人者であった齢蔵は、理科教育のなかで「学校園」の設置を重視した。明治28年(1895)に松本尋常高等小学校女子部に植物園を設置したのが、齢蔵のロックガーデン築造の第一歩となった。自著『高山植物の培養』(昭和9年)で、「余は高山に登って、御花畑にたった時に、無我の境地に悠遊して、大自然の美観を味うのが最も楽しとする処であった。ロックガーデンは、之を低地に移して、此の美観に接せんとするのである」と記している。

退職後の齢蔵は、昭和10年(1935)8月に、松本中学校にロックガーデンを築造している。松本中学が現在の地に新築落成した時だ。ロックガーデンがあったことを覚えていると、今年になって同窓生の一人から話を聞いた。どこにあったのだろうか。第二中学校にも齢蔵は、昭和12年7月に築造している。こちらは、今も3つ残っているというが。

その後、齢蔵は松本紀念館(現、松本市立博物館)のために、昭和13年4月下旬からロックガーデンの工事をはじめ、7月に第1期工事が竣工。この間、74歳の齢蔵は早朝から夕方まで心血を注いだ。第2期工事は、齢蔵の逝去で頓挫したが、同年6月に完成をみた。

筆者紹介 : 小松 芳郎