深志高校の正門の西にある通用門(松本城二の丸に松本中学があったころに使われていた校門)を入ってすぐ左に大きな石碑が建つ(高236cm、幅104㎝)。「斎藤順先生頌徳碑」で、明治44年9月に建てられた。
男爵辻新次の篆額。東京高等師範学校教授吉田静致(同窓生)の撰、東京帝国大学法科大学教授法学博士加藤正治の書、井亀泉の刻。
碑文は、本文370字で、およそ以下のような内容である。
諱は順、字は祥甫、号は星軒。父は利斐、医をもって松本藩主に仕えた。幼くして父を亡くし母に訓育された。9歳のとき松本藩の藩学崇教館にはいる。明治3年、藩命で東京に遊学、翌年に帰郷。以後、中学校に奉職すること30年。訓導・助教諭・教諭、教頭となる。
松本中学を創立する際には、筑摩県の命により上京し、文部省、諸府県の教則を参酌し教則をつくる。しばしば私費をとうじて近県の中学を視察歴遊。詩文をよくし、歴史・生理・生物に通じ、公務の傍ら家塾を置いて子弟を教育した。温厚、厳格で、37年9月2日に54歳で亡くなり、蟻ヶ崎の正麟寺に葬られた。子がないため、三宅氏の子を世継ぎとした。『晩翠楼詩文集』、『信濃誌』を著した。いまここに故旧の門人があつまって碑を建てることにした。
この碑文にはないが、斎藤は嘉永4年(1851)に生まれている。明治9年に開智学校変則課勤務、10年には、長野県の命をうけて東京師範学校で中学校教則教授法などを調べ、県の中学校に導入した。
明治16年、能勢栄が校長として赴任、師範学校長で中学校は兼務だったので、斎藤は校長代理としていっさいを主宰した。19年に県立中学校となり、専任校長として小林有也が着任したので、斎藤はもっぱら生徒指導にあたった。24年には温古会を組織して会長をつとめ、古墳・遺物を調査研究した。34年に病気のため職を辞した。
なお、加藤正治は斎藤の教え子で、昭和10年11月1日に新発足した松本中学校同窓会の会長となっている。