戦時下、空襲を受けた名古屋の三菱重工業の飛行機工場が松本に疎開することが決まった。昭和20年2月のことだ。松本市内の製糸工場や、松本高等学校・松本第二中学・松本工業学校・清水国民学校・開明座などへの疎開が計画された。しかし、松本への空襲が必至ということで、さらに山間部への再分散計画が実行された。林城山・向山へ地下工場をつくり、里山辺・中山へは半地下工場の建設が4月からはじまった。
この半地下工場の設計を担ったのが、池田三四郎さんである。聞き取り調査のために私は松本の神田に訪ね、資料をみせてもらったりしてから、すでに25年が経つ。
三四郎さんは、明治42年に本町の三六呉服店に四男として生れ、四郎と名付けられた。松本尋常高等小学校開智部に入学し、3年生の時に源池部へ転校した。松本中学へすすみ、応援団長を務めた。映画に熱中し、中学や家にかくれて映画館に通っていた。中学を卒業すると、三四郎は東京高等工芸学校に入学、写真科に入った。
兄の三郎が24歳で亡くなり、兄の分まで努力したいと22歳のときに三四郎と改名した。
松本に戻った三四郎さんは、木材を使った会社をはじめた。鉄材が不足していたので飛行機の格納庫の骨組みを補助する特別な合板を試作し、陸軍の航空本部に提出した。8月まで続いた地下・半地下工場の建設工事は、その6割が完成していたという。
昭和23年、38歳の三四郎は京都での日本民藝協会全国協議会に出かけ、柳宗悦の講演を聴いて民芸に目覚め、本格的な民芸家具に作り上げようと取り組み始めた。
設計から家・調度などをプロデュースし昭和25年に開業したレストラン「鯛萬」、31年開店の三四郎さん設計による民芸茶房「まるも」が知られる。昭和44年には松本市神田に「松本民芸生活館」が完成。「民家は、民芸の最大なるもの」という三四郎さんの信念の現われであった。
三四郎さんは、平成11年12月、90歳の生涯を閉じた。