【第61号】上原良司「きけ わだつみのこえ」

「戦後70年を迎えた今年、高校生のみなさんに改めて平和について考えてもらうことを目的に、意見文・感想文コンクールを開催いたします。上原良司の3通の遺書をはじめ、良司の生き方を通して感じたこと、良司が今生きていたらどんなことを私たちに語ってくれるのか、自由に書いてください」。

「わだつみのこえ70年の会」が主催する応募要項の一文だ。深志の現役生の応募に期待したい。締め切りは5月31日。

上原良司は大正11年(1922)9月27日、北安曇郡池田町に3男として生まれた。松本中学4年のときは友人と鉱物採集に熱中、5年のときは籠球部に所属した。

昭和16年、慶応義塾大学予科に入学。大学生活の中で出会ったのが、イタリアの歴史哲学者ベネディット・クローチェだった。クローチェは第2次大戦時、反ファシズムの先頭に立ち、自由の尊さを訴えた人物だ。入学した12月に太平洋戦争がはじまり、大学生特権の兵役免除がなくなる18年の学徒出陣を迎える。18年10月21日、明治神宮外苑競技場での学徒出陣壮行会に良司も参加した。その翌日に次兄の戦死の知らせを受けた。12月1日、松本の聯隊に入営。19年2月、特別操縦見習士官となった。

20年4月、陸軍特別攻撃隊第56振武隊員となった良司は、故郷の家族や友人のもとを訪れた。帰るとき、家から少し離れた乳房橋のたもとから遠くに見送る家族に向かって「さようなら」と3度も言って別れを告げた。これまで聞いたことのない大きな声を聞いて、母親は「良司は死ぬ気でいるんだな。最後の別れに来たんだ」と思ったという。

良司が特攻隊員として出撃する前夜の5月10日、報道班員のひとりが鹿児島県知覧飛行場で、出撃する前の気持ちを書いてくれと良司に頼んだ。このときの文章が『きけわだつみのこえ』で広く知られる「所感」である。

5月11日の朝、良司は母から貰ったタバコの1本を最後まで残しておいて吸った。6時30分、知覧飛行場を離陸。良司が敵艦船に突入したのは午前9時だった。

22歳で逝った良司は、兄2人とともに和田の万年寺に眠る。

長野県立歴史館では、この7月に上原良司の企画展を開催すると聞く。

筆者紹介 : 小松 芳郎