高校南側の生徒通用門は「登竜門」と呼ばれる。竜門は中国の黄河中流にある急流。激流を登った鯉は竜になるといわれた故事による。困難を克服すれば、道が開かれるという関門を指す。
レンガを施した高さ約2㍍の一対は、松本城時代の松本中学校の正門「赤門」だった。零落した姿に当時の丸山恒人同窓会長が胸を痛め、私費5万円を投じて移転の実現に奔走した。東側に立つ袖門とともに昭和26(1951)年に母校に移された。
よみがえった門柱に「登竜門」と名付け、新しい命を吹き込んだのは時の岡田甫校長である。旧制広島高校教授の任にあった昭和20年8月6日、原爆で夫人と一女を失った。若い世代の教育に新生日本の建設指針を定めた。自治の本質を追い求め、戦後の「深志教育」を築いた人だった。
「登竜門」ができるまで、ほとんどの生徒は敷地西側から校庭を横切って登校したという。正門から出入りするように、と注意するもいっこうに改善されなかったそうだ。
「15の春」の試練に耐えて「登竜門」をくぐった1年生には、この先いくつもの関門が立ちはだかる。学びの道にショートカットする近道や裏口などない。将来を見据えた学習姿勢で急流に挑んでほしい。