【第25号】浅井洌と県歌「信濃の国」

現在の長野県が成立したのは、明治9年8月21日だ。それまでは筑摩県(松本に県庁)、旧長野県(長野に県庁)の時代が4年9か月続いた。合県後には、県庁を移そう、県を分けようと願う移庁・分県運動がおき、南北の対立が激しくなった。そうした県民感情を歌によって一体感をもたせようと求められて「信濃の国」を作詞したのが浅井洌で、明治32年6月に発表された。

ペリー来航4年前の嘉永2年(1849)に、松本城下の鷹匠町に松本藩士大岩家の3男として生まれた洌は、12歳のときに堂町浅井家の養嗣子となった。幼少より四書の素読、習字を習い、藩校で漢学を学んだ。剣術、槍術、砲術、水泳の免許を受け、文武両道の修業に励んだ。幕末には松本藩の長州征伐に従軍、明治維新後、藩命により江戸に遊学し漢学を学び、明治4年の廃藩置県で松本に帰った。

6年5月の開智学校開校にともない訓導になり、信楽村の盛業学校(のちに出柳学校)の教師として7年から勤務。14年4月から5年あまり公立松本中学校教師として勤務し、国語・漢文・歴史を教えた。だから、洌は、深志同窓会会員名簿(2011年)に、教師(特別会員)として載っている。

19年9月、長野県尋常師範学校勤務を命じられ洌は、長野に移り住んだ。以後、大正15年6月まで師範教育につくした。

「松本伊那佐久善光寺」と「信濃の国」の一番で四つの平を唄う歌詞に感心しつつ、信州松本を想う。

筆者紹介 : 小松 芳郎