【第7号】松本深志の名

松本平には疎水伝説で知られる泉小太郎の話がある。小太郎は、松本の中山で生まれ鉢伏山で成長し、城山の放光寺で成人したという。母犀竜の背に乗った小太郎は、松本平の湖水を下流に流して豊饒な平野を築いたという話である。

江戸時代に書かれた松本藩の地理・歴史書の「信府統記」には、「深瀬と云うは其の中に川筋の深い瀬があるところ」とある。水深き土地を深瀬といった。のちに篠竹の薮であったところを刈り払って城を築いたから深篠ともいう。深瀬が深志に、さらに深篠といわれるようになったと伝わるが、どこまで本当かわからない。いずれにしても、この平は湿地帯だったということだろう。

明治33年(1900)1月の長野県会は、松本城本丸を松本中学校の運動場にすると議決。校舎は二の丸にあり、小林有也校長はこのとき45歳。翌年6月、校長と松本町長らは、県と天守閣修復の相談をし、8月13日に「松本天守閣保存会」を発足。事務所を中学校内に置いた。

そんなことから深志という地名ができたのだが、深志が松本の名に変わったのは天正10年(1582)という。この年3月に武田氏を滅ぼした織田信長が6月に本能寺で殺される。しばらくして、この地を支配した小笠原貞慶が、松本と名をかえた。430年前の話だ。

松本深志高校の名は、深志と松本という、古くからの歴史を校名に戴いている。

旧制松本高校も松本中学も松本の名がつくが、市内の新制高等学校は、みな松本がつく。松本城下にあったから「松本丸の内」でもよかったかもしれぬが、この平の歴史ある「深志」の名がついた。

筆者紹介 : 小松 芳郎