【第235号】わたしが生物学者になったわけ

新海 正(24回)
東京都健康長寿医療センター研究所 主任研究員
芝浦工業大学 教授、早稲田大学 講師

 小さい頃から外界の様子に興味があり、小学生の時には友達と星を見る会を作って、本に出ている星座を実際に夜空で見つけて喜んでいました。その後、深志高に入学し、当然のことながら地学会の天文班に入り、立派な望遠鏡で月のクレーターを見たり、土星の輪を観察したりして楽しんでいました。また、時期になると高校の屋上や山岳で班員のみんなと多くの流星群を観察したものです。その時の成果は、とんぼ祭で発表して深志生だけではなく一般市民の方々にも報告していました。丁度その頃アポロ11号の月面着陸が話題になり「宇宙にも生き物はいるのかな?」などということをみんなで話し合ったりもしました。ところで、60年代後半から70年代にかけて地球環境についての議論が世界各国でなされており、日本では環境庁(現在の環境省)が設置され、公害防止や自然環境保全を推進するという考えが根付いて、長野県でも美ヶ原のビーナスライン建設について、自然保護団体からの反対運動が広がり全国的に注目されていました。深志高には博物会という歴史のあるクラブが存在します。友人の何人かが所属していて、このような環境保護についての話を一緒になって議論し、大いに影響を受けた記憶があります。この時から生物との関わり合いが強くなり、結びつきが綿密になっていったように思います。

 学生を卒業し社会人になってから老化研究を始めるようになりました。この老化の意義はなかなか難しく、初めは「長生きするためにはどうするの?」でよかったのですが、今では「健康に長生きしていこう」に変わってきています。それどころかAI技術の発展により、「老化は病気だから医療・薬によって治せる」とか「死なない方法がある」というような意見も飛び交っています。もしこのような学説が通るならば、ヒトは次の世代の誕生も必要なく、ずっと昔から生きてきた進化のない生物集団となってしまいます。ただ、これらの考えはヒト以外の生物については触れておらず、生態系についても全く言及していません。しかし、生物は動物も植物も顕微鏡下のミクロの世界に生息する細菌も、お互いに密接に関係しながら恵みを受けて生命を営み続けているのです。今後このような人間中心の見解から脱却し、ヒトも含めた全生物レベルでの考え方が必要となってくるのではないでしょうか。

在籍当時のとんぼ祭記念バッジ。左から第21回(1969年)、第22回(1970年)、第23回(1971年)