【第185号】100年前のスペイン風邪の大流行

100年前に世界中にひろがった流行性感冒がある。スペイン風邪とよばれる。

大正7(1918)年8月から10年7月にかけて長野県下でも猛威をふるった。県下の死亡者は7年2278人、8年1237人、9年3347人、10年134人で、4年間に約7000人にたっした。

スペイン風邪が長野県で流行しはじめたのは、東京で大正7年10月にひらかれた中等学校マラソン大会に出場した長野師範の選手が感染してもち帰ったものといわれる。

松本で流行しはじめたのは同月20日ころからだ。

流行が比較的はやくあらわれたのは学校で、10月30日の『信濃民報』は、「松本中学で740人中250人、同日1週間の休校を決定、松本高等女学校・女子師範学校が、それぞれ600人中113人、210人中71人の欠席、近く休校をさけられまい。市内小学校は全体で数百人が欠席、職員の欠席も多く、1人で2組を担当しているものも多い」などと報じた。

松本尋常高等小学校開智部では、大正7年11月4日から1週間にわたって「流行性感冒」のため臨時休校とした。

また、『信濃民報』(11月27日)は、「製糸工場は片倉の500人をはじめ各工場とも大打撃をうけ、100人、200人が病床にあり、1本の針金にいくつもの氷嚢をぶら下げた光景は見るからに悲惨なものであった。市が実施している女工らの特別教育の学期試験も欠席が多く、処置なしである」と報じた。

流行がややおくれてでた歩兵第五十聯隊では、12月にはいってもほとんど衰えをみせなかった。12月18日に、入院中のものは数十人、死亡者は18人にたっした。新兵の死亡はほぼ1日1人の割合とさえいわれた。死亡者は五十聯隊の例にもみられるように、身体的にも無理をしやすい青壮年層に多かった。

なお、「スペイン風邪」の発生源は米国で、「アメリカ風邪」だった。第一次世界大戦時、アメリカは、援軍とともに風邪もヨーロッパにもたらしてしまったのだ。

筆者紹介 : 小松 芳郎