【第173号】ガラ紡を発明した臥雲辰致

ガラ紡機の発明家臥雲辰致は、30歳のときに自らつけた名で、幼名は横山栄弥である。臥雲姓は、臥雲山孤峰院の住職をつとめたことに因む。

栄弥は、天保13年(1842)8月、田多井村(現・安曇野市堀金)の横山家の2男として生まれた。足袋底問屋を営む家業を手伝いながら育った。父は、紡織機の改良に熱中する息子を見て、将来の見込がないと判断し、隣村の安楽寺の弟子に出した。栄弥20歳のときだ。仏道に精進した栄弥は、6年後に安楽寺近くの孤峰院の住持になった。明治になって還俗して帰農、名を変えた辰致は、畑を耕しながら綿糸紡績機の発明を再開した。地租改正が布告され「地引帳」の提出を求められていたとき、波多村(現・松本市波田)の川澄家の田畑や山林を測量するため、辰致が新たに作成した土地測量器に目をつけて川澄家に逗留させた。

明治10年に東京で開催された内国勧業博覧会に、辰致は綿紡機械出品した。「本会第1の好発明」と激賞され、最高の栄誉である鳳紋褒賞牌を授与された。軽快にガラガラという運転音から「ガラ紡」と呼ばれるようになった。その後、辰致の発明したガラ紡は、愛知県に移入されて、臥雲式水車紡績・舟紡績として発展していった。

18年の春、女鳥羽川に設置してあった水車場が水害で破損し大損害を受けた辰致は、再建できず、妻の実家川澄家の世話になった。発明の情熱は衰えず、蚕網織機などの発明に精魂を傾けた。

明治33年6月、59歳の生涯を閉じた。辰致の4人の子どものうち、長男が川澄家を継ぎ、4男が臥雲家を継いだ。

辰致の墓は上波田の川澄家の墓地にある。私(小松)の母は、同姓の川澄家の生まれで(辰致の長男の家の隣)、母方の祖父母の墓も、同じ場所にある。

深志8回の臥雲さんは、辰致の孫のひとりで、3年前に『臥雲辰致・日本独創のガラ紡-その遺伝子を受け継ぐ―』を中心になって刊行された。購読希望者は、小松まで。

筆者紹介 : 小松 芳郎