【第157号】防衛庁長官をつとめた増田甲子七

甲子七は、明治31年(1898)10月、東筑摩郡坂北村(現、筑北村)に生まれた。小学4年生のとき、母が肺結核で亡くなった。父は後妻を迎えたが、甲子七に理解ある継母だった。兄2人が早世して事実上の長男なので、松本中学校進学希望に反対する父に、学校へ行かせたらよいと継母が説いてくれた。44年4月に松中に入学、同級生に、降旗徳弥(のちに、松本市長、深志同窓会長)がいた。

第八高等学校(名古屋)に入学した翌年、腸チフスにかかり帰郷。全快して復学を希望したが認められなかった。退学後は、父に従い、たばこの商いで荷車を引いて郡内の小売店を回った。

学問への意欲と官吏への夢を追いながら、勉強を2年間怠らず、旧制高等学校卒業検定試験に合格、京都帝国大学法学部法律学科に進んだ。大正11年(1922)3月に卒業、4月に内務省に入った。翌年10月に大阪府警視・監察官を命ぜられた。昭和2年(1927)6月、兵庫県社会課長として赴任。

20年8月15日、玉音放送を坂北村の生家できいた。それまでの10年間、甲子七は病床の生活を続けていた。健康を回復した甲子七は、20年10月に福島県知事を命じられた。その業績を評価され、食糧難が特にひどい北海道へ、長官として21年4月に辞令を受けた。

甲子七の手腕を認めた吉田茂は、22年1月の内閣改造で運輸大臣に登用。吉田の側近として重用され、労働大臣・官房長官・建設大臣・初代北海道開発庁長官・自由党幹事長を歴任。一時は吉田の後継者とみられたが、遠ざけられた。

22年4月の第23回総選挙で初当選した甲子七は、51年の第34回総選挙まで10回当選した。この間に2回落選した。落選がなければ、総理大臣になっていたかもしれぬ。

41年12月には、佐藤栄作内閣で防衛庁長官に就任。深志高校の西穂の遭難は、その在任中のことだ。

昭和60年12月、東京の自宅の火災で、妻を助けようとして亡くなった。87歳だった。

筆者紹介 : 小松 芳郎