【第149号】松本中学校と松本医学専門学校

昭和17年(1942)7月25日、医学専門学校が設置されることになり、8月に松本市への設置が決まった。

校舎確保が一番の問題となった。18年10月、松本商業学校の校舎が最適とみられたが、実現できなかった。19年2月24日、文部省は長野県知事に、松本中学校(松中)校舎を提供してほしいとし、校舎問題がのびれば、松本への設置は中止との強硬な態度にでた。知事は仕方なく松中校舎の提供を承知したが、中学校と同窓会のつよい抵抗にあい、解決できないまま、3月28日に官立松本医学専門学校(松本医専)が正式認可された。

4月16日に、第一次入学試験が松本高等学校と松本第二中学校(現、県ケ丘高校)でおこなわれた。5月8日には、松本高等学校(松高)の講堂を借りて開校式、10日には同所で入学式がおこなわれた。6月15日までは、松高の四教室を借りて授業がおこなわれた。7月には正行寺で、8月には林昌寺で、生物・生化学・解剖・薬理・細菌・病理などの講義が実施された。

8月20日に、知事が松中を視察し、松本医専と共学するよういいわたし、清水謙一郎校長が19日付で依願退職。8月28日の職員会議でようやく共学にふみきった。

これを知った松中の生徒は憤激し、退職した清水校長を見殺しにするのかと叫び、県の態度を非難した。戦場でも銃後でも医者が不足しており、これを補充することが急務なのに、共学に反対するのは「不忠の臣」だと新聞が批判した。10月1日から松本医専と松中の校舎共用がはじまった。

松中を松本医専に充て、松中は、松本城二の丸の元松中のあった場所に新築するという計画がたてられた。地鎮祭をおこなったが、戦時下の資材・労力不足のため実現しなかった。

21年4月18日、旧歩兵第五十聯隊跡を使用する承認をえて、一部移転がおこなわれた。

26年3月31日に、信州大学医学部の前身の松本医專は廃校となった。

筆者紹介 : 小松 芳郎