【第143号】阿智村の満蒙開拓平和祈念館で

長野県下から昭和20年8月までに送り出された満洲開拓団・義勇隊開拓団は、開拓団3万1264人(『長野県史』通史編による)で全国1位であった。第2位の山形県の約2.4倍、全国の開拓団員数の14.2%だ。満蒙開拓青少年義勇軍による義勇隊開拓団も、全国の約6.5%にあたる6595人だった。

下伊那郡阿智村に、満蒙開拓平和祈念館が5年前に開館した。この7月29日に、久しぶりに訪れた。

大勢の聞き取りをまとめた「証言 それぞれの記憶」のコーナーに、宮川清治さんの証言「教師として義勇軍を送出」が紹介されていた。宮川さんは、大正9年(1920)3月の生まれで、松本中学を昭和12年(1937)に卒業(58回)。私の父(61回)より3年先輩だ。私は30代の頃から、地域史などでご指導いただいてきている。

「校長も義勇軍に出す役員で、割り当てが来るわけだ。先生たちが一番困ってるのは、去年もおととしも割り当てが満たなんで、村長・校長は小さくなってなきゃいけんと。」「割り当てが達成できて喜んだに。今年っからは威張れるって、一番喜んだのが村長・校長。」「おれはうれしくなかったよ。15歳の者をそんな、満洲に送り込むなんて、無茶じゃねえか。」「終戦のときに引き揚げてくる途中で、発疹チフスで、(教え子が)満洲で死んでしまった。」「(戦後)学校へ9月から出たけれども、胸がスッキリしねえわけだ。国家主義の教育やった奴が民主主義の教育になってきてね、そういうことで矛盾を感じて、何かさみしくなっちまったりして、どうも学校へ行く気力がうすれてきて」と。

宮川さんは、「子どものために命を捧げるような教育をするのがお前たちの任務だ。生きて帰った者の任務だ」という校長のひとことで、教師を続けることとなった。

73年前の9月2日は、日本が無条件降伏した日だ。戦争の記憶を、記録としてのこし、若い世代に伝えていくことが、今まで以上に求められている。

筆者紹介 : 小松 芳郎