【第141号】県歌「信濃の国」制定50年

昭和43(1968)年5月20日、「信濃の国」が県歌に制定された。この年は明治100年にあたっていて、その記念事業に県歌を制定しようということになった。

じつは、昭和22年に長野県が公募した「長野県民歌」があった。当時、県は、市町村をはじめ各学校、公民館等に配布し普及につとめたが広がらなかった。

「信濃の国」のできたのは明治32(1899)年のことだ。信濃教育会が、長野県師範学校の浅井洌(松本の鷹匠町出身)に作詞を委嘱した。洌が51歳のときだ。

明治14年4月から19年8月まで5年余り公立松本中学校教師として勤務し、国語・漢文・歴史を教えた洌は、19年9月に尋常師範学校勤務を命じられて長野に移り住んだ。

明治10年代から20年代にかけて、移庁・分県をめぐって南北の対立もおきていた。県下各地の地理と歴史と風土がほぼ平等に盛り込まれた歌詞が求められていて、洌も、そのことを意識し「信濃の国」を作詞したという。

同じ長野師範の音楽教師依田弁之助が曲をつけた。しかし、あまり歌われなく忘れ去られていた。そこにあらわれたのが、依田の後任として32年11月に青森県師範学校から転任してきた北村季晴だ。東京に生まれた北村は洌より23歳若かった。北村の宿舎を手配したのが舎監長の洌だった。

翌33年10月の師範学校の運動会に、女子部生徒の遊戯用として、「信濃の国」が発表された。卒業生たちは県下各地の教壇に立つと「信濃の国」を教え、全県に普及していった。

昭和9年、86歳の洌は「依田君の作曲あることを知らず、その時の音楽教師北村季晴君に作曲をお願いした。北村君は作曲したあとで、依田君の作った譜のある事を聞いて、それがあるなら別に作るではなかったが、知らないゆえに女生徒に請われるままに運動会の前に急遽作曲した。」と書いている。

洌の一言が、今日の県歌「信濃の国」をうんだのである。

筆者紹介 : 小松 芳郎