【第107号】タロ・ジロを育てた犬飼哲夫

犬飼哲夫は、明治30年(1897)10月、東筑摩郡島内村に生まれた。44年4月に松本中学校に入学した哲夫は、4キロの道を通った。帰りには回り道をしてたんぼ道を通り、イナゴを捕って袋に入れ、家で調理して翌日の弁当のおかずにしたりした。

大正2年(1913)、中学3年の時、哲夫は同級生2人と日本アルプスの登山を試みた。上伊那農学校長だった河野齢蔵に手紙を出して登山の心得を問い合わせた。齢蔵は親切にこまごまと登山のルートや用具について長い返事をくれた。齢蔵は、島内の犬飼新田に生まれた我が国の高山植物学の第一人者で、信濃博物学会・信濃山岳会などで指導的役割を果した人物だ。

哲夫は、中学4年の頃に海外活動の夢を抱き、アメリカへの移住奨励の講演を聴きに行った。講師の旅館に出向いた哲夫は、移住を希望し、「父は上級学校に行け、いやなら2000円やるからアメリカに行くがよいが、後は面倒をみないと怒っている」と話した。講師は、「その金は落とすことも盗まれることもあるが、親のいうとおりに上級学校に行き学問を身につけたら、誰からも取られたり、落としたりすることはない、ぜひ上級学校に行け」と説得された。

哲夫は、さっそく受験勉強に力を入れ、中学卒業後、東北帝国大学農科大学予科に入学。8年に北海道帝国大学農学部農業生物学科に入学。

昭和33年(1958)2月24日、日本の南極観測隊は、越冬を断念し帰国した。15頭のカラフト犬は、昭和基地に橇につながれたまま置き去りにされた。翌年1月14日、基地に着いた越冬隊員たちは、生存していたタロとジロをみつけた。このタロとジロを北海道稚内の訓練所で手塩にかけたのが、北海道大学教授の犬飼哲夫だった。

妻の道子は、北海道史研究の第一人者の河野常吉の次女。常吉は、島内の犬飼新田の生まれで、河野齢蔵の兄である。

平成元年(1989)7月31日、哲夫は91歳8か月の生涯を閉じた。

筆者紹介 : 小松 芳郎