【第87号】敗戦時の松本中学5年生

昭和3年1月に生まれ、15年に松本中学に入学した与曽井豊氏(松中66回)に、卒業時の体験を聞いた。

「19年8月2日、5年生全員が帽子の白線を外して、松本から汽車に乗って名古屋へ学徒動員に行った。守山工場で、排気管を造るための溶接などの仕事をしていた。

12月7日の南海地震のときは、工場にいて、立っていられなくて四つん這いになった。近くの小高い丘へ逃げた。

20年3月に松本中学を卒業。まだ守山に行っていろと言われた。いくらか小遣いをもらい、町へ出て水団などを食べた。名古屋の大空襲にあい、名古屋城天守が真っ赤に焼けたのを私は横で眺めた(20年5月14日)。寮に着いたら寮が爆撃された。焼夷筒をいっぱい落とされた。たまたま防空壕に入ったので助かった。

松本へ帰れと言われて、工場でおにぎりを2つもらって、名古屋駅に行き汽車を待った。私のところにおばさんが来て跪いて手を出したので、おにぎりをひとつくれた。その人は涙ぐんでお礼を言った。

6月28日に帰郷した私は長野工専へ入り、善光寺近くに下宿をした。8月13日に長野駅も空襲にあった。少し離れていたので怪我はなかった。8月15日、家へ帰って来て玉音放送を聞いたが、何を言っているのか分からなかった。」

中学時代の写真や思い出の記録などをひろげながら、与曽井氏はお話された。

松本中学校・深志高校の『90年史』によると、松本中学では19年7月下旬に5年生に名古屋の矢島工業守山工場への通年動員の命令がくだった。名古屋の軍需工場の大半は徹底的に壊滅させられたが、郊外の守山工場は戦災を免れ、生徒はなお留まっていた。卒業式に帰郷が許され、20年3月30日に松本中学で5年生と4年生とが同時に卒業。前者は第66回生、後者は第67回生と呼ばれた。

20年度は4月1日が始業式、5日が入学式だった。しかし、学校の授業は原則として停止され、戦力増強のため勤労が継続されたのである。

筆者紹介 : 小松 芳郎