【第77号】松本中学伝説の相談会長、小岩井浄

この10月1日に、松本市美術館で「松本が生んだ小岩井浄―書院教授から愛知大学長へ―」という講演会があった。愛知大学東亜同文書院大学記念センターの主催で、私は「小岩井先生と松本」という講演をした。

浄は、東筑摩郡島立村北栗に明治30年6月に生まれた。尋常小学校2年のとき「六歳ノ時ノ六月、オ父サンガ、私ガ朝起キナイ内ニ亜米利加ニイッテシマイマシタ」と書いた。このとき父宗十は37歳。祖父母、妻、3人の娘と浄がのこされた。

44年3月に島立小学校高等科から、松本中学校に入学。在学中に、小林有也校長が逝去、大正3年9月に本荘太一郎校長が就任、それまでの自由な空気は一掃された。5年生になると浄は、相談会長・学級正幹事・文芸部委員・野球部委員を兼ね、『校友』を発行、自治的活動を展開した。校長は、矯風会と相談会の会長を兼任させて1名とし、浄がその会長となった。校長と意見が衝突して会長を辞任した浄に、校長は「会長を辞めるなら学校も退け」と言い、浄は4年6月に退学した。

中学卒の資格がないため、5年1月に専門学校入学者資格検定試験を受けて合格。代用教員をしながら勉強して第一高等学校に合格。大正8年に卒業後、9月に東京帝国大学法学部に入った。11年3月に大学を卒業。労働者が多く知識階級が少ないからと大阪に住み、日本農民組合の顧問弁護士、関西大学講師となった。12年8月、第1次共産党事件で検挙、東京に収容された。仮釈放後、大阪に住んだ。

昭和2年7月、米国の父が62歳で急逝。浄への遺言は「人間の正道を進み、決して家名をけがさぬよう」だった。4年5月の大阪市会選挙に当選。6年10月に大阪府会議員選挙に獄中から立候補して当選。15年4月に中国に渡り、東亜同文書院大学の教授となった。敗戦を上海で迎え帰国、創立された愛知大学教授に就任。30年11月に愛知大学第3代学長となった。

浄は、34年2月19日、62歳で亡くなったが、浄の姉(長女)の長男である藤澤宗平先生には、私も日本史を教わった。

筆者紹介 : 小松 芳郎