この4月20日に「戦争と勝鬨丸」という講演をききに、深志高校図書館に雨の中を出かけた。図書館に入ったのは、私の娘(深志53回)が在学中に、図書館ゼミで上野千鶴子さんをむかえて講演をしたとき以来のことだ。
講演の講師は、中野善夫さんで松本中学61回生。余談だが、「松中」は当時「まつちゅう」ではなく「しょうちゅう」とよんでいたという。
中野さんは、松中を卒業後に輸送船に配属され、昭和19年9月に勝鬨丸に乗船した。シンガポールへの輸送を終えて、引き返す途中に米国の潜水艦からの魚雷攻撃を受けて海南島沖で撃沈。そこから生還するまでの経験を、90分間にわたってお話された。
「戦後70年の節目の今年、戦争を知る年代が少なくなってきた。今語っておかないといけない。戦争は絶対してはいけないという堅い信念のもとに、お話ししたい」と、冒頭で中野さんは語り、勝鬨丸での体験を話された。
この船は、マニラに寄り、シンガポールに着き、帰りにはボーキサイトを積んで、軍人・傷病兵など880余人、オーストラリア兵など捕虜950人、乗組員158人を乗せていた。6隻の船団で進み、マニラで3隻が合流。その直後に、潜水艦からの魚雷攻撃を受け、船団はバラバラに。勝鬨丸だけがのこって海南島へ避難しようとしたが、深夜11時過ぎに、3発の魚雷のうち2発をはずしたが1発が命中。「そのすさまじい音は、今も耳にのこっている」と中野さん。船長の「総員退船命令」のもと、沈没しないうちにエンジンルームからなんとか脱出できた。燃料の重油があふれだしてドロドロの身となったが、満天の星空を覚えているという。約10時間の漂流ののち、日本の飛行機に発見され、救助船に助けられた。このとき中野さんは21歳。
中野さんの松本中学時代は4クラスで200人だったが、多くが亡くなり、いまは40人をかけるくらいという。
私の父も、松中61回生だ。93歳の中野さんと同期ということになる。37年前に亡くなった父が元気だったらと想い重ねながら、お話をきいていた。