【第35号】松本中学野球部、甲子園へ

松本中学校校友会最後となる『校友』(昭和23年3月発行)第90号掲載の野球部の部報に、「中等野球史始まって以来、明石対中京(二十五回)に次ぐ大延長戦、炎熱の下二十三回、四時間三十分にわたった長戦であった。甲子園に進む我々の感激如何」と書かれている。

松本中学校野球部が、22年の夏に甲子園出場を果たしたのだ。まさに、我が校にとって、歴史的な快挙といってよい。

当時の新聞には、「全国中等野球信越予選決勝 信越代表に松中チーム 勝つも涙 負けるも涙 接戦23回 全国中等野球信越地区予選決勝松本中学対松本市立中学戦は4日午後1時新潟市白山球場で松本中学先攻で開始、延長23回の後4-2で松本中学が優勝」、「投げ勝った松中萩本投手も、敗れたとはいえ松市中平野投手も、23回を各1人で投げ通した敢闘ぶりは激賞に値する」とある。

このときの対戦相手の松本市立中学校は、昭和16年4月、松本市地蔵清水に(今の日銀と市役所)へ開校し、戦後の学制改革で閉校となった。市役所内に記念碑がある。

そして、ハレの甲子園での第29回全国中等学校優勝野球大会。成田中学との初戦で10対0で敗けた。「粛々と駒を進めた我々は、あゝ、この檜舞台にて何んたる敗北ぞ」と、『校友』第90号に記した。

このときの投手だった萩本晴彦氏は、第90号の『校友』に誕生したばかりの演劇部の部報を書いている。同氏は、昭和47年に「オーケストラがやってきた」の製作を開始、この番組は以後11年間、544回も続いた。昭和54年から2年間、深志高校野球部の「押しかけコーチ」となった。また、平成8年、長野冬季オリンピック開閉会式シニアプロデューサーに就任した人物である。

筆者紹介 : 小松 芳郎