【第84号】小林校長を思う

国宝松本城を解体復元した「昭和の大修理」に対して、松本中学の初代校長・小林有也が取り組んだ天守の保存修理は「明治の大修理」と呼ばれる。

市川量造の手で維新後の破却を免れた天守も、明治30年代に入ると屋根瓦や下見板の傷みとともに南西方向への傾きが目立つようになった。このころ築造から既に300年を経ている。

小林校長はなぜ天守を永遠に保存しようと考えたのだろうか。

松本町内では当時、本丸空き地を公園にして天守の維持保存を図りたいとする機運が強かった。県は一帯の運動場化を考え、県議会も県方針の可決に動いた。校長は地域の強い思いに突き動かされたに違いない。県立中学の校長という職を賭す形で「松本城天守閣保存会」を組織して運動の最前線に立った。

旧藩主の戸田家をはじめ松本町民、県外在住の地元出身者が寄付に応じた。工事は明治36年から大正2年までの足かけ11年。当時の金額で22,000円余が投じられた。

「明治の大修理」にかかわる詳細な資料はない。小林校長が天守を崩壊の危機から救わなければ、天下の名城がいま存在していたかどうか。城下町の原風景を見上げながら小林校長の思索と行動を思う。

筆者紹介 : 伊藤 芳郎