【第176号】情報処理能力

中学、高校の頃を振り返ると、英語は苦手な教科であった。高校時代、授業はエスケープの連続であった。大学に入ってイタリア中世史を専攻することになり、英語、ドイツ語、イタリア語を読んだ。もちろん辞書を片手に四苦八苦。

最近、ひょんなことから長野県の高校入試問題を見る機会があった。問題を解いた訳ではないが、情報量の多さに驚いた。たぶん、新しい学習指導要領によるものだ。何かと話題の大学入試においても、センター試験に代わり共通テストとなり、出題内容が大きく変わるようだ。聞くところによると、国語では取扱い説明書(トリセツ)の読解に類似する出題が予想される。伝統的な現代文、古典のウェイトが低くなるとも言われている。

そのことの是非は別として、もう一つ最近話題のAIとの関係を考えると、どうも嫌な気分になる。AIに限らず確かに世の中は便利になった。こうして文章を書いていても、漢字には変換してくれる。電車の乗換えも瞬時に答えを出してくれる。英語が話せなくてもある程度いろんな言語に翻訳してくれるらしい。

だから、テクノロジーの発達を前提に、人としてすることを考えるために先ほどの学習指導も練られているようだ。AIは膨大な情報を蓄積し、目的に応じて必要な答えを出してくれる。一つの答えを導くために情報を収集し、試行錯誤という経験をとおして知恵を絞る。そんな営みが人類の発展に寄与してきたように思う。臨機応変な対応、突拍子もないアイデアは、今のところAIには難しいようだ。特に、子育てはAIには難しいらしい。子育てにマニュアルがないように。

筆者紹介 : 水野 好清