明治44年(1911)1月1日、松本本町1丁目の女鳥羽川沿いにある松本市立松本尋常高等小学校(戦後の開智小学校)で、元旦拝賀式がおこなわれた。1月11日は、松本の飴市のため臨時休業だった。1週間後の18日、校長は、その日の日誌の最後に、「大逆非道ヲ犯セシ幸徳秋水一派廿四人ハ死刑ニ、二名ハ重懲役ニ、本日大審院ニ於テ宣告」と書いた。20日の日誌には、「大逆徒二十四人中、十二人ハ陛下ノ至仁特命ニヨリ一等ヲ減ジ、無期徒刑」と事件の続報。そして、24日の日誌の末尾には、「大逆徒幸徳以下十二人、本日死刑ニ処セラル」と記した。3月31日には、国内外の出来事のうち「本年度重要日誌」のひとつとして、44年1月24日の「幸徳秋水以下一二名社会主義者死刑」を、わざわざあげている。
実際には、1月24日に幸徳秋水(40歳)ら11人が、25日に管野スガ(30歳)が死刑となった。世に知られる「大逆事件」だ。
明治30年には、社会問題研究会が結成され、翌年10月に新たに社会主義研究会が組織されて、木下尚江(松中2回)も会員だった。34年5月に、日本社会民主党が設立。尚江が事務局となり、高知県出身の幸徳秋水も一員だった。非戦論を主張していた秋水によって、36年11月発刊の『平民新聞』は、社会主義へ関心をよせた青年たちのなかに、急速にひろがっていった。秋水が唱えようとした主義・主張のひとつに、「自由・平等・博愛」がある。
『平民新聞』の長野県内の読者数は、東京、北海道についで全国第3位だった。県下の青年たちに、その著書もふくめて大きな影響を与えた木下尚江は、「大逆事件」には関係しなかった。39年5月、尚江が37歳のとき、母が68歳で亡くなった。母の死をきっかけに社会主義運動も新聞記者もやめ、表舞台から姿を消していたからだ。
昭和12年(1937)11月5日、尚江は68歳で亡くなった。