【第153号】井口喜源治と研成義塾

この12月2日に、安曇野市文書館の開館記念講演で、地元の人物のひとりとして、井口喜源治をとりあげて話をした。

喜源治は、明治3(1870)年5月、安曇郡等々力町村(後に合併して東穂高村、現、安曇野市穂高)に生まれた。17年9月に長野県中学校松本支校に入学。東穂高村からの入学は喜源治と相馬愛蔵の2人だった。喜源治は、東筑摩郡島内村(現、松本市島内)新橋の母方の伯母の家に下宿して通った。

中学校を22年6月に卒業した喜源治は、弁護士をめざして9月に明治法律学校(明治大学の前身)に入学したが、翌年、家の事情で学校を続けられなくなった。弁護士より教師にと考えた喜源治は、松本中学時代の恩師浅井洌に相談した。浅井は教師を勧めて世話をし、26年4月からは、東穂高組合高等小学校の教壇に立った。

喜源治は、芸妓置屋設置反対運動を進めたため、31年10月に豊科組合高等小学校への転勤を命ぜられた。学校側は全校一致で迎え入れ拒否の決議文を南安曇郡長に提出した。退職した28歳の喜源治に、私塾設立の実現をすすめたのは相馬愛蔵の長兄たちだった。

同年11月、小学校を退学した者を含めて12人が集まった。校名は、穂高学校の前身研成学校からとった。34年1月に東穂高村に新校舎が落成、4月に認可された。

喜源治が1人で7学年を教えた。1週28時間、英語が週6時間あった。教え子にアメリカヘの渡航を熱心に勧め、70人ほどの塾生が渡米した。

生徒数は多い時でも40人ほどで、塾の維持経営費用は授業料でまかなわれた。それだけでは不充分で、喜源治は私財すべてを投じて教育に精魂を傾けた。男7人女3人の子を育て、家計は苦しかったという。

34年問、卒業生800余人を巣立たせた研成義塾は、昭和13年(1938)3月に廃校となった。その4か月後の7月21日、喜源治は69歳の生涯を閉じた。

私(小松)は、来年1月11日に69歳になる。

筆者紹介 : 小松 芳郎