【第224号】才能教育実践小学校の教頭先生

 昭和23(1948)年2月付で、県の首席視学上條茂が突如として出身村の本郷小校長に発令された。東筑教員組合や教育会などが立ち上がり、この人事に反対意志を表明した。その4月から本郷小学校で「才能教育」が実施され、鈴木鎮一の支援やその宣伝力と相侯って、全国から参観者がつめかけた。孤立無援状態の校長を補佐する教頭を誰にするかが問題であった。学校と教育会の間に立ってどう教育をすすめてゆくのか、本郷村と学校との調整も重要であった。そうしたなかで最適任者として推薦されたのが井口道雄(松中49回)だった
 上條校長は、昭和27年3月に退職。4月に才能教育の後始末の意向をうけた校長が着任。才能教育実験校を中断することが職員会にかけられ、全員賛成となった。才能教育の特別学級はなくなり、その学級の児童たちはそれぞれの学年のクラスに入った。
 井口道雄は、本郷小学校を去ってのちに校長をつとめるが、家族のアルバムを丹精込めて整理していた。その1枚1枚につけられている文章は詩的で、温厚・誠実な芸術家肌の人柄をしのばせるものであった。
 当時31歳で日活撮影所の助監督だった熊井啓(松中69回)が帰郷時に、母が借りてきたそのアルバムをみた。子供の頃知っていた井口道雄の娘の明子さんの、成人した姿に興味が湧いたのだ。「あの時、もし道雄氏のアルバムが無かったら、私は帰京してしまい明子と永久に出会うことはなかったに違いない。私たちの人生を決めたのは道雄氏が丹精こめて作ったアルバムだったのだ。そこには氏の凡てが凝縮されていた。いいかえればアルバムは氏の秀れた芸術作品であり、その作品の力が私の心を深くとらえたのだった」、そしてさらに「私が道雄氏の作品を理解し得るならば、氏もまた、将来つくるであろう私の作品の良き理解者となりうるであろうと直観したのだった」と、熊井啓は、『井口道雄 追憶と遺稿』(1989年1月発行)で述べている。

筆者紹介 : 小松 芳郎