【第211号】「流浪の民」混声合唱(上)中島博昭

 昭和22(1947)年。敗戦直後の荒廃から我が国全体がどう立ち上がるか苦悶している時期でした。わたしは松本中学校の最後の入学で、この年は六・三・三制により松本中学校が松本深志高校と変わり、わたしたちはその併設中学校の2年生となり、1年生のいない最下級生でした。この年誕生したばかりの合唱部は、すっかり大人となった上級生にまだ変声期のこない下級生のわたしたちのようなボーイソプラノが混じっていました。
 そんな日々、突然他校の女性合唱部と組んで混声合唱をやることになったのです。
 混声合唱というだけでも驚きですが、相手の女声合唱部が松本から離れた豊科高校で、まったく考えられない相手だったのです。それに取り組む曲目が「流浪の民」という難曲。
 なぜこんな事態となったのか。わたしたち身内の合唱部員のあいだでは、このときの両校の部長同士が好きになったからというのが通説になり、ずーっと70年以上も経った現在まで信じ込んできていました。
 わたしどもの部長はkさん、向こうは大西葉子さんという方でした。kさんは松本に住み、小柄ながら小太りの身体から出る声は、みごとなテナーで素人離れしていました。大西さんは、東京から疎開し、わたしと同じ当時の西穂高村に住み、同じように大糸線の柏矢町駅から通学していました。当時の田舎では目立つアカ抜けた女学生で、清楚な面影がありました。
 「いいよな。部長同士で恋愛して、こんなでっかい合唱をしちゃうなんて」、「うん。ドラマチックだな」
 感じやすい少年期のわたしたちには、夢のような先輩たちの仕業でした。
 練習は双方の学校の音楽室を訪れておこないました。最初は豊科へ、つぎに深志と。しかし結局は2回だけで終わり、その成果の発表会はついにおこなわれず仕舞いでした。
 歌は「流浪の民」、ジプシーたちの夜の宴の風景です。戦後の荒廃に苦しむわたしたちの心境にこの歌はぴったり重なりました。疎開し故郷や敗戦でこれまでの心の拠り所を失ったわたしたちとこの流浪の民たち・・。
 たしかわたしどもの学校での練習のときだったと記憶しております。ハプニングが起こったのです。もっとも盛り上がるソロ場面にきたとき、テナーとアルトの歌手がいなくなったのです。それまで合唱で進んできたのが突然「可愛し乙女舞いでつ」とソプラノのソロになり、続いて「松明赤く照り渡る」とアルトが出なければいけません。それが大西さんでした。しかし彼女がいないのです。つぎの「管弦の響き賑わしく」はテナーですが、そのテナーのkさんもいないのです。「連れ立ちて舞い遊ぶ」のバスのソロが歌えなくて、あわててウロウロとする場面が展開されたのです。
 このときのハプニングはわたしたち身内の部員のあいだでは、「彼らは屋上へ行ってランデブーをしていた」というまことしやかで見てきたような解釈をして、二人の愛の強さを強調したのでした。

中島博昭 : 1934年、長野県安曇野市穂高柏原に生まれる。現在、地域史研究家、安曇野市「みらい」運営委員長、安曇野文芸編集長、安曇野塾運営委員。長年、松本深志高校など県内高校の社会科教師や県短期大学の講師を務めるかたわら、松沢求策はじめ郷土の優れた人物や文化財の掘り起こしと顕彰、地域づくりに尽力してきた。(「犀川 川筋ものがたり」より)


筆者紹介 : 小松 芳郎