【第197号】尚志社と松原温三

 深志教育会館内に建つ「尚志社の跡」の碑。深志高校となってからも何人かの生徒がここに寝泊りしていた。
 その尚志社を創立した松原温三は、明治2(1869)年12月に松本に生まれた。父は松本藩の儒者松原葆斎。父につれられて7年に上京、10年に父と松本に戻った温三は開智学校に入学。勉強せずに落第もして、16年12月、14歳のときに開智学校を卒業。
 長野県中学校松本支校(19年9月から長野県尋常中学校)に17年に入学した温三は、たびたび落第。2年の時に、家に無断で上京して長兄の栄を訪ねた。栄は温三を厳しく戒めた。帰松した温三は、松本中学に復学、勉学に運動に打ち込んだ。
 松中時代、温三は、松本城天守の最上層南の窓から這い出し、棟瓦の上で逆立をした。見るものは皆驚いて拍手も喝釆もできなかったという。小林有也校長に逆立ちは厳禁された。
 20年の秋、4年生の温三は中学をやめ、海軍兵学校入学を目指して予備校に入った。24年9月下旬、関西・九州方面へ旅立った。九州男児との交流経験が、信濃舎、尚志社をおこすもとになったといわれる。
 30年6月1日、温三は松本の同志と計り、大名町に15畳2間を借り松本中学の生徒十数人を集めて共同自炊生活に入り信濃舎を設立した。33年5月に沢村に移り、温三が信山黌と命名した。同志の活動団結をはかり同年10月に信山尚志社となった。その第一事業として東京・松本・飯田に寄宿舎の建設を決めた。
 35年4月からは、名実ともに創立以来その目的とした一地域、一郷党のものではない尚志社として歩み始めた。
 明治34年6月12日に31歳で亡くなった温三の葬儀は、小石川白山の龍雲院で尚志社社葬として営まれた。温三の遺骨は、死後も身近に置きたいという友人たちの願いによって二分され、松本の木沢正麟寺と東京の全生庵に埋葬された。
 尚志社の建物は、昭和36(1961)年11月13日夜焼失した。

筆者紹介 : 小松 芳郎