【第177号】松中(しょうちゅう)第1回の堀内千万蔵

堀内千万蔵は、芳川村平田の百瀬三七の2男として、明治元(1868)年4月に生まれた。父は、明治初年に四か堰を開削した人だ。

漢学者の武居用拙に学び、18年7月に松本中学校第1期生として卒業した。同級生は10人だった。

19年12月、塩尻村の堀内家の婿養子となり、堀内家の新宅をつくった。

千万蔵は明治31年5月から36年3月までと、44年12月から大正6(1917)年3月までの2回、塩尻村長に就任した。村長としてのおもな治績は、第1回の村長のときには、塩尻農会の創立、桔梗ケ原ブドー園の開園、婦人会創設などがある。2回目には、役場の新築、東筑摩郡立南部乙種農学校の創立、小坂田公園の開園、消防組や商工会の創設、などがある。

村長らの公職を退いたのちは地方史研究に専念し、松塩筑地方の古代・中世史の研究につとめた。また、松本史談会の結成にあたってはその中核となった。大正9年、松本市葵の馬場に転居して研究に没頭した。

千万蔵は、大正14年4月に『塩尻地史』を刊行した。この本は、のちに刊行された『塩尻町誌』の重要な参考書になった。昭和8(1933)年刊行の『松本市史』の編纂にあたり、『信濃二千六百年史』の部分執筆、『信濃戦国時代史』も著した。このほか、信濃史学会機関誌の第1次『信濃』に28編、第2次『信濃』に8編の論説を発表した。晩年には、長野県史蹟名勝天然紀念物調査委員となった。

千万蔵は、葵堂と号し、漢詩・囲碁の趣味があった。昭和12年4月、千万蔵に私淑した有志が、小坂田公園東方の丘に頌徳碑を建立した。撰文は浅井洌、書は田代其次(号は秋鶴、片丘出身の書家)。

その9年後の21年9月17日、千万蔵は79歳で亡くなった。

ところで、芳川村は、明治22(1889)年4月、4か村が合併して成立し、昭和29年8月に松本市大字芳川となった。平成25(2013)年10月に、住居表示がかわり、「芳川」の地名が住所から消えた。

筆者紹介 : 小松 芳郎

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