【第151号】松本高等学校の開校は松本中学校から

文部省が松本に高等学校設置のことを公にしたのは、大正7年(1918)4月27日のことだ。

松本高等学校(松高)の開校は、はじめ大正9年度からと予定されていたが、高校をめざす浪人があまりにも多いため、文部省は、8年度から松本・新潟・山口・松山の4校の開校を急濾きめた。

8年4月、勅令と文部省令で、この4校の設置が公布された。このときから高等学校の名称は、これまでの一高から八高までのように番号ではなく、地名でよばれることになった。松高は、設立順序によって九高をもって任じたという。

松高の校舎は当時まだ整地工事中だったので、松本市長の小里頼永は文部省の要請をうけ、当分のあいだ、松本城二の丸にあった松本中学校(松中)の校舎の一部を借りることにした。

4月26日には官報で募集定員160人と発表された。6月1日、松高事務が松中の博物教室にひらかれ、同時に松中の玄関に「松本高等学校」の門札が掲げられた。

入学試験は7月上旬におこなわれ、850人が受験し(5.3倍)、合格者の半分の80人が長野県内出身者で、そのまた半分の38人が松中の出身者でしめられた。9月11日、松中の講堂で入学式がおこなわれ、13日から授業が開始された。まさに、松高は、松中からスタートしたのだ。修業年限3年、1学年4クラス編制で、授業料は年40円であった。大正9年の小学校教員の初任給が40円から55円の頃だ。

松高の校舎建設は、8年9月15日に上棟式、11月には寮の建築もはじまった。本館が竣工し、松中から移転したのは9年8月21日、寮の完成は8月31日だった。

10年4月から3学年が全部そろい、11年3月に第1回卒業式がおこなわれた。

昭和24年(1949)5月、松高は新制の信州大学文理学部と改組された。25年3月、第29回卒業生を送りだし、松高は閉鎖された。

筆者紹介 : 小松 芳郎