【第133号】私鉄王・五島慶太は、松中21回生

五島慶太は、小県郡青木村の小林家で、明治15年(1882)4月に生まれた。地元の小学校尋常4年を修了し、浦里村の小学校高等科2年を卒業、上田の中学校へ進学。

19年9月、松本に修業年限5年の長野県尋常中学校が設立、上田支校は廃止されたが、26年4月に上田支校がまた設置された。上田支校の修業年限は3年、あと2年間は松本の本校に行くことになった支校3年を修了し、五島が松本の本校に入学したのは31年のことだ。

青木村から松本への通学は無理のため、小林有也校長らが各支校からの生徒たちの下宿探しをした。校長の世話で、五島は友人と、松本町の東ノ丁にある上條家で、自炊生活をすることになった。浅間温泉の「つたの湯」へもよく出かけ、折にふれ、すぐ近くの天白神社に参拝していた。土曜の夜や日曜日には、母家で主人の武士道の話などを楽しそうに聞いていたという。

卒業式の日、上條家では赤飯で祝った。五島は天白神社で長いこと祈り松本を去った。

卒業後、地元の学校の代用教員となる。勉強に明け暮れ、登校の道すがらや校庭でも本を開いている姿は、村びとの話題となった。

20歳で東京高等師範学校に合格、5年後に東京帝国大学選科に入学。高師卒では本科の入学試験を受けられないので、第一高等学校卒業資格試験に合格して、東京帝大政治科本科に入学。卒業後29歳で農商務省に入省、鉄道院勤務となった。

明治45年2月、久米家の長女と結婚し、久米家の祖母の家の五島家再興のため五島に改姓した。

昭和19年(1944)3月、東條内閣の運輸通信大臣に就任。その後、私鉄会社の設立と買収を繰り返し、一代で東急グループを築き上げた。その強引な手法から「乗っ取り王」「強盗慶太」との異名がついた。

五島はまた、東横沿線の文教都市づくりにも力を入れた。東急記念文庫は32年に開館。五島美術館は、34年8月に77歳で他界する数か月前に喜寿の記念事業として設立された。

筆者紹介 : 小松 芳郎