【第131号】伊那電気鉄道敷設に尽力した伊原五郎兵衛

伊原恒次は、明治13(1880)年10月8日、飯田町の漆器店近江屋の伊原五郎兵衛の3男として生まれた。長男は夭逝、次男の広司が伊原家を家督相続するが、日露戦争に従軍し、旅順で37年9月に戦死した。

恒次は、27年4月、長野県尋常中学校飯田支校入学、のちに松本中学で2年間学んだ。32年3月に松本中学を卒業し、同年9月第一高等学校に入学した。35年に一高を卒業して東京帝国大学仏法科に入学、外交官を志した。

兄の広司が戦死した2年後の39年に東京帝国大学を卒業。飯田に帰った恒次は、兄嫁と結婚し、家業の漆器店近江屋を継いだ。

明治27年、父である8代目伊原五郎兵衛を中心とする上伊那と下伊那郡の有志は、辰野から飯田町に至る電車鉄道の設立を計画した。辰野・飯田間の電車鉄道敷設請願書を内務大臣に提出した。

恒次は、鉄道敷設実現を願う父たちの動きを松本中学時代からみていた。急病で父が死亡したため(39年3月)、恒次は家業だけでなく、伊那電車軌道の建設も継ぐこととなった。父の意志を受け継ぎ、襲名して9代目の伊原五郎兵衛を名乗る。そして、私財をなげうって伊那谷に電車を走らせるために奔走していった。

40年9月、伊那電車軌道株式会社が設立され、41年、用地買収と軌道工事にとりかかった。伊原五郎兵衛は、レール敷設工事の先頭に立った。

明治42年12月28日に辰野・伊那松島間が開通。飯田までの開通は大正12(1923)年8月、辰野・天竜峡間の全通は、昭和2(1927)年12月だった。

五郎兵衛は松本電気鉄道の創立者上条信(松本市新村出身、松中24回)のあとを継いで、昭和3年に松本電鉄2代目の社長になった。16年後の19年8月、運輸通信大臣の五島慶太(松中21回)によって、松本電気鉄道の社長を解任された。

昭和27年1月、飯田駅前に「伊原五郎兵衛頌徳碑」が建てられた。その3か月後の4月3日、伊原五郎兵衛(恒次)は72歳の生涯を閉じた。

筆者紹介 : 小松 芳郎

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