【第123号】永田廣志没後70年

この9月16日に山形村ミラ・フード館で、永田廣志没後70年記念講演があり、私は「永田廣志と、その生きた時代」と題して話をした。

永田廣志は、わが国のマルクス主義哲学における最初の弁証法的唯物論哲学者である。独学で哲学を学び、在野の活動をとおして日本マルクス主義哲学の発展に大きな貢献をした人物だ。

永田は、明治37(1904)年4月に東筑摩郡山形村小坂に生まれた。大正5(1916)年4月に松本中学校へ入学した永田は、本荘太一郎校長のもとで1回だけ実施された推薦待遇による無試験で入学した21人中の1人だった。そのなかに、本荘校長の長男がいたことから疑惑をもたれ、県が調査することとなった。実際には473人志願して146人が入学した。大正期のうち最高の競争率だった。

毎日の通学は不可能だったから、永田は入学と同時に自治寮に入った。この自治寮の新設は、特別推薦入学制とともに、本荘校長の改革の二大眼目だった。永田は、3年生のとき、自治寮の舎監と対立し追放処分となり、小池町に下宿した。永田は、数学と英語を得意として抜群の成績だった。

4年生の12月、父のすすめで大地主の永田兵太郎(善光寺の仁王門を寄付した人物)の養子となるが、18歳のときにそれを断った。

昭和11(1936)年8月に、『日本唯物論史』が、13年4月には『日本封建制イデオロギー』が、7月には『日本哲学思想史』が出版された。廣志のこの3大著書は、日本のマルクス主義哲史だけでなく、日本の哲学の歴史においても画期的なものだった。

敗戦後、松本の分銅町の借家に移った。病気が進みほとんど病床に臥す身となった。

昭和22(1947)年9月、43歳でこの世を去った。『松中新聞』第5号(同年9月30日)は、「永遠に生きる唯物論、松中先輩の変わり種、故永田廣志告別式、九月十五日午後、世代の生んだ偉大なマルキスト故永田廣志告別追悼式が、一切の偶像虚礼を廃して公民館で挙行された」と報じた。

筆者紹介 : 小松 芳郎