【第121号】木下尚江と秋水と正造

明治4年(1871)9月に高知県に生まれた幸徳秋水は、尚江らと、34年5月に社会民主党を結成。明治30年代、「幸徳の筆、木下の舌」(文章家の幸徳秋水、演説家の木下尚江)といわれた。

日本の公害問題の原点とされる足尾鉱毒事件の解決を訴えた田中正造の思想と実践に、尚江は共感を寄せた。34年11月29日に東京で尚江の演説を聞いた足尾鉱山主古河市兵衛の妻が、鉱毒事件の事実を知って神田川に投身自殺してしまう。

日露戦争時には、秋水は戦争に反対して非戦論を展開。38年11月、アメリカ亡命を余儀なくされた秋水が明日出発という日、尚江は、家の近くの切り株に腰をおろして秋水と語り合った。39年5月、母が68歳で亡くなると、37歳の尚江は、社会主義運動も新聞記者もやめ、表舞台から姿を消す。

大正2(1913)年12月に尚江の長男が生れたが、正造と名付けた。昭和11(1936)年8月1日、妻が63歳で死去。翌年11月5日、尚江は、68歳で永眠。

尚江と秋水と正造の劇「明治の柩」が、第18回トンボ祭で上演された。劇中では、旗中正造(田中)、豪徳さん(幸徳秋水)、岩下さん(木下尚江)が登場する。

『深志百年』には、この年、再建に力を注いだ演劇部のことが、次のように書かれている。「40年2月初め、2か月半ぶりで部室に集まることができた7名の部員は、演劇の基本を学ぼうではないか、と話し合う。発声・メイキャップ・照明等の実地研究会を次々に開いてゆく。部の同人雑誌を発刊し、これを軸にして部員が自分の真の姿を見せあい、お互いに信頼感で結びあう部を作ろうとした。また夏休み中、配電台・ホリゾント4基・サスペンション2等を造り、照明の充実をはかった」、「こうして40年9月4日、『明治の柩』の公演によって部は立ち直ることができたと言えよう。主人公のモデルは足尾銅山鉱毒問題に壮絶な一生を捧げた田中正造である」。

1年生で演劇部にはいった私は、「豪徳さん」を演じたのである。

筆者紹介 : 小松 芳郎

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