【第119号】木下尚江は、松中2回卒業

キリスト教社会主義運動の主唱者で、小説家、弁護士であった木下尚江は、松本の天白町に生まれた。同窓会名簿には松中2回の5人のうちの一人である。

明治9(1876)年3月に開智学校に入学し、14年に公立松本中学校に入学した。長野県師範学校長で公立松本中学校長を兼任した能勢栄から、唱歌・英語・キリスト教などの講義を直接受け、尚江は、後年その学恩に感謝している。また、中学校時代に教えを受けた浅井洌(県歌「信濃の国」作詞者)を大恩人といい、「文章など書くのは全く浅井先生の賜物」と述懐している。浅井洌の中学在勤時代の住居と家塾は、尚江と同じ天白町だった。

16年7月の公立松本中学校全校生徒と全職員の写真が同窓会にあるが、そこに尚江も写っている。17年2月から7月にかけて、東筑摩中学校(公立松本中学校は16年12月から東筑摩中学校となる)に在学した。最年少ながら級中随一の高得点で、とくに物理・歴史・漢文・英語が優れていた。17年9月1日に東筑摩中学校は長野県中学校松本支校となるが、このころ英語のよくできる木下は「パーシモンの木下」といわれた。秋の遠足で「柿は英語で何というか」という問いに、尚江は事もなげに「柿はパーシモンさ」と答えて皆を驚かしたという。

その後、尚江はイギリスの清教徒革命の主謀者クロムウエルの史実を知って強烈な影響を受け、何かにつけてクロムウエルを持ち出すので「クロムウエルの木下」と呼ばれるようになった。

尚江が松本支校を卒業したのは19年2月で、3月に上京して英吉利法律学校(中央大学の前身)に入学したが、期待した英国憲法の講座がなく、東京専門学校(現早稲田大学)に転じた。尚江が卒業して7か月後の9月8日に、長野県尋常中学校が設立される。

生家は昭和51年に解体されたが、木下尚江顕彰会が取得し、松本市へ寄付、58年に、松本市島立の「松本市歴史の里」に移築復元された。

筆者紹介 : 小松 芳郎

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