【第101号】校歌のいわれ

10月15日の創立140周年記念式典に校歌を5番まで、22日の深志20会の総会には2番まで謳った。

松本中学には、明治35年(1902)に卒業生の勝山勝司が作詞し、米久保善雄が作曲した校歌があったが、あまり歌われることなく生徒からは忘れられていた。

5年生の臼井吉見が文芸部の委員長していたとき、委員の松原威雄がその校歌を見つけてきた。ひどく間延びした大時代的なもので、なんとか復活させようと思ったが、どうしようもない。文芸部とし、圧縮して新しい校歌を作ろうということになり、臼井が相談会に委員長として提案した。相談会が決定したので、言い出した松原に「自分で圧縮してみろ」といったら、すぐに松原は書いてきた。いまの校歌だ。

旧校歌をもとにその精神を生かし、8番までのものを5番までに縮小してそれぞれの表現の意味を明らかにしたという。

松原自身が校歌の作成経過を、「古い校歌を根拠として作った。七つあった歌が五つに減ったが、旧作の心持はそのまま受け入れたつもりだ。1番は学校の徽章の由来を説いてそれを賛美し、2番は松中の特徴否生命というべき自治を謳歌し、3番では歴史過去、4番では現在を歌い、5番では未来に対する抱負を歌った。」と述べている。

作ったのは大正11年(1922)4月下旬の4,5日間、場所は野球部の合宿所、作曲は文芸部顧問の先生の斡旋で東京音楽学校(現、東京芸術大学)助教授の岡野貞一。在京中の校長(羽石重雄)が依頼して、楽譜は7月23日に送り届けられた。

『校友』第67号(大正12年2月28日発行)に掲載された校歌は、新制松本深志高校校歌として今も歌い継がれている。

作詞した松原威雄は、明治37年(1904)5月に西筑摩郡駒ケ根村(木曽郡上松町)に生まれた。大正7年4月に長野県立松本中学校に入学、13年3月に卒業(松中45回)。4月に早稲田大学に入学したが、14年6月に肺炎で逝去、21歳だった。

筆者紹介 : 小松 芳郎