【第93号】小林有也校長の死から102年

旧制松本中学校の校長をながいこと勤め、松本城天守の修理保存活動に尽力した小林有也は、大正3(1914)年6月9日、校長在職のまま59歳で世を去った。死に臨み、生徒たちに次の3か条の遺訓を残した。「諸子はあくまで精神的に勉強せよ。而して大に身体の強健を計れ。決して現代の悪風潮に染み堕落するが如き事あるべからず。」翌日、講堂で全校生徒にこの遺訓が伝えられたとき、嗚咽の声が響き渡ったという。

安政2年(1855)6月1日、和泉国伯太藩(大阪府)の重臣の家に長男として生れた。江戸藩邸に生れたので、13歳まで江戸で過ごした。

慶応3(1867)年、有也が12歳のとき、母(39歳)が亡くなり、翌明治元(1868)年8月、祖母と継母が同じ日に亡くなった。父は伯太藩にいて間にあわないので、親戚の協力を得て、有也自ら葬儀を取り仕切った。その年、90余歳の伯母、16歳の姉、11歳の妹、8歳と5歳の弟を連れての和泉に帰った。箱根を越える時には、右手に常に刀をにぎり、伯母と姉の輿側を離れなかったという。

明治3年に、有也は伯太藩で1人だけ貢進生(学費は政府が負担)に選ばれて上京し大学南校に入った。この制度は翌年に廃止され、苦労を経ても、有也は学問から離れなかった。

10年4月に帝国大学(現東京大学)が設立されると、有也は理学部仏語物理学科に進学、13年7月に卒業した。翌年5月から農省務省工務局調査課兼統計課に勤め、17年7月に農商務省をやめた。

明治17年7月、有也は長野県中学校教則取調委員となり、9月に長野県中学校長兼一等教諭となった。中学教育を担当する人材を求めていた長野県が、有也を抜擢したのだ。長野県中学校は、長野に本校があり、松本・上田・飯田に支校があった。

19年9月、中学校は長野県尋常中学校と改称され、本校が松本町に移転したので、有也も松本町に移った。その後29年間、松本中学校長をつとめていた。

筆者紹介 : 小松 芳郎