【第89号】山本一蔵(飼山)を想う

明治43年(1910)5月19日、ハレー彗星が地球に大接近したその日に、明科の地で爆発物が見つかって発覚したのが、大逆事件のはじまりである。同時代を東京で過ごしていた山本一蔵の記録を追ったことがある。彼の遺した日記は、その時期だけがなくなっていた。

一蔵は、明治23年7月、東京神田区和泉町に生まれた。父幾蔵は、東筑摩郡島内村(現松本市)犬飼新田の河野家の4人兄弟の次男(兄彦司、弟常吉、齢蔵)で、東京に出て旧幕府同心の山本家の養子となり結婚。一蔵が生まれるとまもなく大阪に移った。父が亡くなると、一蔵は31年5月3日に河野家に落ちつき、島内小学校に転校した。

37年4月、松本中学に進学、それまで優等生だった一蔵は、しだいに反権力・非戦論に転じていった。39年6月30日、3年生の一蔵が学校に提出した作文が社会主義的であると判断され小林有也校長から停学処分を受けた。それでも社会主義の勉学をすすめた。一蔵は、松本中学生の時から飼山(島内の犬飼山からとる)と号し、松本で発行されていた『信濃日報』の常連投稿者だった。

42年4月、一蔵は、早稲田大学に進んだ。木下尚江に接し、幸徳秋水・管野すが・新村忠雄(大逆事件の関係者)とも会い、女性解放運動先駆者で社会主義者の福田英子とも交流を深めていた。

大正2(1913)年7月に早稲田大学を卒業し、社会主義への道を歩むが、就職もままならなかった。病魔にとりつかれ、帰郷して療養と体力回復につとめた。10月18日早朝に上京。11月4日、遺書を書きおえた23歳の飼山は、大久保で上野発品川行の貨物列車に飛びこんだ。5日午前2時半頃のことだった。

自殺した翌年の『早稲田文学』は、2月号に「若き自殺者の生涯」と題して特集を組んだ。吉江孤雁・島村抱月らの早稲田の恩師、河野常吉・齢蔵らの親族、社会主義者堺利彦らの賛助のもとに、遺稿出版計画が進められ、『飼山遺稿』が大正3年6月に刊行された。

筆者紹介 : 小松 芳郎