【第75号】戦時下の勤労奉仕

日清戦争からアジア・太平洋戦争まで50年間、日本は戦争の時代だった。とりわけ、昭和6年9月18日から20年9月2日までの15年間は、毎日が戦時下であった。

昭和13年6月、文部省は通達をだし、集団勤労作業の実施を中等学校以上に指令した。松本中学では、この年6月20日から6日間、近隣町村に生徒たちが出動して農作業に従事した。勤労動員の始まりである。16年2月に政府は、1年のうち30日以内は授業を廃止して、作業に充当できるとした。松中は、16年5月に報国団を結成、9月には報国隊を編成し、動員体制を整えた。

14年以降、春秋農繁期の勤労奉仕が恒常化した。同窓会が所蔵する昭和17年度秋季の「勤労奉仕日記」をみてみよう。新・笹賀・入山辺・岡田・島内・片丘・上川手・明盛・里山辺・北穂高・中川手の各村と穂高町に出動した記録だ。

このうちの新村奉仕隊第一分隊の日誌をみる。10月12日「我々は上新を奉仕す。九時より十二時迄、新村宅の農林第十七号を刈り、後束ねた。仕事の量、一反五畝。午後十三時半より十六時迄木船宅に奉仕す。稲刈、束ねる。運搬。仕事量は一反五畝。」

13日に南新、14日に北新、16日に下新、それぞれ午前1軒、午後1軒ずつ稲刈り、束ね、はぜ掛けなどをした。

このときの「勤労奉仕所感」として、生徒のひとりは次のように書いている。「鏡の如く澄み渡つた青空を頭に戴き、実に身も心も爽やかに奉仕出来たことは忘られぬ事である。此の間、吾等の念頭に常に去来せるものは、喜び自ら働く、黙々として働く、仕事に丁寧なる、この三つである」。「今年の夏も旱天が続き、この辺の百姓は数回、島々山へ雨乞に出かけた。その結果か、雨は降つた。皆黄金が降ると云つて泣いた。嗚呼、五穀は天地の慈愛の結晶であり人間の勤労の結晶であるのだ。而してこの戦時、米は我らの血と肉である」。

昭和20年8月19日の通牒で、20日を期して学徒勤労動員の出動が停止された。それから70年がたつ。

筆者紹介 : 小松 芳郎