【第67号】農本主義者の和合恒男

深志高校の校長をつとめて今は亡き中村磐根先生が『深志百年』(昭和53年発行)で、松本中学で学んだ「昭和思想史の3人」のひとりに和合恒男を取り上げている。先日、波田の和合家に行ってお話を聞いた。

和合恒男は、明治34(1901)年5月10日、本郷村横田の蚕種製造を家業とする家に生れた。12歳の時に母を失った。大正3年4月に恒男は松本中学校に入学。その2か月後の6月9日に小林有也校長が59歳で逝去。蚕種製造は振わず家計は貧しく、恒男は米穀問屋の丁稚をしながら松本城二の丸の中学に通学したこともあった。8年3月に中学を卒業(松中40回)、4月に代用教員となった。9月には新設された松本高等学校に入学したが、3年生のとき愛想をつかして無断休学、父の破産もあり、また代用教員になった。

大正11年、恒男は東京帝国大学文学部印度哲学科に進んだが出席しなくなった。12年4月、大学在学のまま野沢中学校の教師となり、大きな家を借りて生徒数人と自炊生活をはじめた。父の借金もかたづけた。東大に試験だけ受けに行っていて14年に卒業した。翌年4月には長野高等女学校に転勤、長野市狐池に庵を結んで善の道へと進んだ。

「何より眼が澄んでいた。教育者としてまっすぐな人だし、乞食をするかもしれぬ覚悟で」出浦柳は、ヨレヨレの袴にボウボウの髪でいかにも変人だった恒男と昭和2年3月に結婚した。

翌年6月20日、恒男は、波多村の赤松林の中に瑞穂精舎の落成式をあげた。舎長の恒男と舎生は家族的共同生活の中で、宗教的勤行と農事と講義との厳しい修行にあけくれた。恒男は過酷な労働を舎生に求め、勤労体験をつうじて百姓魂をつくりあげようとした。6年2月に雑誌『百姓』を創刊。平易明快な独特な恒男の文章は読者を惹きつけた。読者は全国に及び朝鮮・「満洲」にも拡大、1年ほどのうちに読者数は千数百に達した。

昭和10年9月の県会議員選挙に恒男は当選。しかし、病にはかてず、16年、満40歳になったばかりの5月16日に亡くなった。

筆者紹介 : 小松 芳郎