【第53号】小林有也と松本城天守の修理保存

松本中学校長の小林有也校長は、個々の生徒と直接話す機会は少なかったが、生徒の挨拶に対しては生徒より深く頭を下げて返礼したという。有也は、とりわけ野球が好きだった。勝ちさえすればいいと考えやすい生徒に向かって、一生懸命やれ、死ぬまで頑張れ、と選手を激励していた。生徒の試合はもとより練習までじっと見物していたという。

有也が松本城修築に乗り出す契機は、松本中学の運動場が松本城本丸内となったことだ。松本町はここを公園に造成する計画だったので、代案として有也は堀の埋め立てを県に打診した。県は予算がないと却下し、明治33年1月、県会は城内庭園を運動場にすると決めた。

34年8月に「松本天守閣保存会」が発足、仮事務所が松本中学校内に置かれた。36年に始まった修理に当たっては、有也は小里頼永松本町長らとともに理事に就任し、寄金の募集に尽力しただけでなく、工事現場にも出入りするなど積極的に活動した。

「その修繕工事の始めの時である。県から来た技師が色々の設計をしたが、先生は一言の下にこれを否定してしまった。先生は理科大学力学科の専攻である、自ら堅い腹案があってその沈着な緻密な脳裡には、もう天守閣の工事は巨となく細となく書かれていたのである。」と、松本尋常高等小学校長の三村寿八郎が書いている。

この修理・保存工事は日露戦争で一時中断したが、大正2年、有也が亡くなる10か月前に完成した。

有也は、大正3年6月9日、校長在職のまま59歳で世を去った。10日の夜、木沢の火葬場で荼毘に付された。28日まで、生徒の希望により、全校生徒が交代で30分から1時間ぐらいづつ、教員2人とともに霊前に通夜した。6月28日、松本城天守下の中学校運動場での葬儀は、会葬者3000人、松本市空前の盛葬であった。

筆者紹介 : 小松 芳郎